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2009年7月

2009年7月29日 (水)

臭い、タバコの煙!

この所、雨が降り続く日が多い。九州北部と中国地方では、そのために災害まで起きてしまった。

雨が降り続くある日の夕方、自宅でのんびりしていると、なにやら臭い匂いが・・・・。タバコの煙だ。なぜ・・・?

我が家はエアコン嫌いが多いため、窓を開け、外気を取り入れて涼をとっている。そのため、外の道を歩きタバコをしている人の煙が、我が家に侵入してきたのだ。

臭い! 厭な匂い! 歩きタバコなんかするな!、との怒りが湧いてきた。

最近、地方自治体によっては地域を決めて歩きタバコなどを禁止する条例を策定する例もあるようだ。そのためか、禁止されている地域以外のところでは、我が物顔でタバコを吸っている輩が目立つように感じるようになった。タバコ自体は禁止薬物でもないので、自由に吸ってもらってかまわない。逆に、禁止することが、別な意味での問題を生じる可能性が高いので、自由に吸う権利を認めるべきだと思う。

ただ、タバコが嫌いな人間も多いのだ。タバコのにおいを感じるだけで、頭痛を感じてしまう人もいる。

喫煙者と嫌煙者の関係をどうするべきか? まずは喫煙者のモラルに訴えかけることが必要だ。今、日本政府はこの段階の対応をしている。しかし、モラルに訴えるだけで問題が解決し得ないことも徐々に判明してきている。喫煙者の権利を守るためにも、喫煙上のルールを法制化する必要が生じた段階に、現在は来ているのだ。

オーストラリアでは、公的空間における喫煙が全面的に禁止されている。個人的には、オーストラリアの立法を参考にすべきだと思う。喫煙者と嫌煙者がともに満足する方策は、オーストラリア方式だけだと思うからだ。個人的なスペース、つまりは自宅の部屋の中であれば、自由にタバコを吸えばよい。それ以外のスペースでは、喫煙を許すべきではないと確信している。タバコの特性は、その煙だ。その煙の被害を、嫌煙者に及ぼさないようにするためには、嫌煙者の権利を保護するためには、喫煙できるスペースを個人の指摘空間に限定するしかないのだ。

その上で、喫煙者を減少させたいと政府が考えれば、タバコの値段を上げればよい。1パッケージ1000円にしてしまえば、いいのではないだろうか。あるいは2,000円でもよい。5,000円でもよい。ゴミの清掃費としての経費をタバコの値段に組み入れれば、それくらいにはなるのかもしれない。

喫煙者のモラルに訴えかける段階はすでに終了した。今は、法律で規制すべき段階になってきているのだ。

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各党政策点検③:自民党政権公約2005について

今から約4年前、自民党は当時の小泉総裁の下「自民党政権公約2005」を発表して、2005年の総選挙を戦い、圧倒的多数の議席を獲得した。自民党政権公約2005を見ると、その中心に郵政民営化を掲げているものの、それ以外にも重要な政策項目が掲げられている。

今、注目を集めている地方分権に関しても記載されている。
017.三位一体改革の推進
018.市町村合併をさらに促進
019.道州制導入の検討を促進
020.地方の行政改革を徹底して実施
と4項目を掲げている。

三位一体改革は、結局、中央省庁の発言権を強くしただけで、地方自治体の財源を奪い、疲弊させる結果を招いた。市町村合併に関しては、それなりに進められた。約3000あった地方公共団体が1000くらいまでになり、それなりに市町村合併は進められた。市町村の規模がそれなりに大きくなり、行政単位として曲がりなりにも機能するくらいにはなったが、同時に行政の住民生活からの乖離という現象も招いている。市町村合併は、道州制の導入と軌を一にしているが、道州制に関しては意見が集約しきれていない。ただ、自民党は2009年の総選挙のマニフェストに2017年までの道州制の導入を急遽書き入れた。????。地方自治体の再編は、その意味付けなどはっきりさせなければならないのだが・・・・・。

結局、自民党が2005年に掲げた政権公約は、その後の4年間では省みられる事はなく、地方分権はほとんど進まなかったといえる。地方自治体、特に都道府県の知事の中に、芸能人などが就任することで、発言権を得たため、その流れの中で流されているというのが、自民党の実態なのだろう。自民党が主体的に地方分権を推し進めようとしているようには、決して見えない。

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2009年7月27日 (月)

テレビゲームが嫌いな人もいる

テレビゲームをしたことがない。子どもたちにもやらせたくない。いくら子どもがねだっても、テレビゲームの類は決して買おうとは思わない。理由は簡単。「お父さんが嫌いだから」だ。

テレビゲームが好きな人は多い。テレビゲームが嫌いは筆者ですら、テレビゲームの類に仕事で関わることがある。その時は満面の笑みをたたえて、「面白そうですね!」。でも腹の中では、「何が面白いんだろう?」という疑問で一杯。よく分からない。

テレビゲームの功罪は色々な人が色々な場所で主張しているので、そこにお任せしよう。ただ筆者は、テレビゲームが嫌いだ。同じようなところをウロウロしているロール・プレイ・ゲームは最も嫌悪するものだ。何が面白いのか! 

テレビゲームをしている人、好きな人を批判する気など毛頭ない。ただ、ただ、ただ、テレビゲームが嫌いな人も世の中に入るということを知って欲しい。

テレビゲームをする人は、すべての人がテレビゲームをするものと思い込んでいる。将棋をする人は決して、すべての人が将棋をするとは思っていない。囲碁をする人も、すべての人が囲碁をするとは思っていない。でもテレビゲームをする人だけは、違う。すべての人が大なり小なりテレビゲームをしたことがあり、それは面白いものだと信じ込んでいる。

そうではない、ということを知るべきだ。

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昨今の警察の本質

神奈川県警による組織防衛と自己正当化の実例がスクープされた。
警察という組織が、昨今、どれだけ腐敗してきているかを示す好例だろう。以下に記事の全文を記す。

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別人逮捕、神奈川県警公表せず 傷害容疑の男性釈放
2009年7月27日5時21分
 横浜市旭区で6月、男性3人が被害に遭う傷害事件があり、神奈川県警旭署が傷害などの容疑で逮捕した同市泉区の男性(26)を、「逮捕状請求の根拠がなくなった」として2日後に釈放していたことが26日、捜査関係者への取材でわかった。事実上の誤認逮捕とみられるが、同署は朝日新聞の取材に「証拠隠滅や逃亡のおそれが無く、在宅捜査に切り替えた」と説明し、公表もしていない。
 捜査関係者や朝日新聞が入手した同署作成の資料によると、6月18日午前2時半ごろ、飲食店駐車場で都内の20代男性3人が、乗用車から降りてきた20代半ばの男3人から暴行を受けた。同署は目撃証言などから容疑者の車を特定。緑色Tシャツの男が運転しており、被害者に車の所有者の男性の写真を見せたところ、この男と特定できたとして、同26日に男性を逮捕した。だが、男性が「車は知人に貸していた」などと容疑を否認したため再捜査した結果、近くの別の防犯カメラに映っていた緑色Tシャツの男は、男性とは体形などが違っていたことから同署は同28日朝、男性を釈放したという。
 資料では釈放理由を「男性を緑色Tシャツの男と特定して逮捕状を請求した根拠が無くなった」とし、「(男性と)緑色Tシャツの男は別人」「本件に関与していない可能性が高い」と記している。その一方で、報道機関の取材があった場合には、「疑いが晴れたわけではなく継続捜査中で、釈放は逃走、証拠隠滅の恐れがないため、と対応する」と明記されていた。

朝日新聞http://www.asahi.com/national/update/0727/TKY200907260285.html
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警察が公権力を行使する場合に、ミスが生じることはいたし方のないことでもある。問題は、ミスをした場合、公権力の行使による被害者の名誉をいかに回復するかである。上記の場合、容疑者でなくなったにもかかわらず、「捜査中」という伝家の宝刀で自分たちの名誉毀損を正当化してしまっている点である。

公務員の行う行為、なかでも警察官による公権力の行使には、強制力が伴うということを忘れてはならない。強制力を伴う公権力の行使でミスが生じた場合、公務員自身の正当化を図るのではなく、被害者の名誉回復と損害回復を図る必要がまずあるのである。

このような意識が完全に欠如している組織に、強制力を伴う公権力など付与すること自体が間違いであり、腐敗した組織を招聘することになってしまうのである。

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2009年7月26日 (日)

各政党政策点検②:地方分権

東国原宮崎県知事と橋下大阪府知事の二人の芸人知事が誕生し、このところ急速に、地方分権に関する議論と関心が高まりつつあるようだ。筆者も基本的には、地方分権を推進していくべきだとの考えを持つだけに、こうした傾向は好ましいもののように思っているが、中長期的な視点で再検討してみる必要があるようにも思う。

中央政府主導による地方分権が議論し始めてすでにかなり長い時間が過ぎている。1995年には地方分権推進方が制定され、地方分権は大いに進展しているかのような印象も与えた。小泉政権が、三位一体の行政改革を唱えたことも、地方分権が進展したかのような印象を与えることになった。

実際はどうなのか。中央政府は、業務は地方政府、特に都道府県に委譲したものの、その業務に見合う資金(財源)はいろいろなカラクリを用いて、実質的には渡していない。都道府県にしてみれば、仕事だけは渡されたものの、仕事をするためのお金は渡してもらえなかったという恨み節だけが残されることになったのだ。さらに、橋下府知事の指摘(「ボッタクリバーの請求書」)にあるように中央政府による非公式な支出要請などもあり、都道府県や市町村の財政状況は、急速に悪化させられている。

この状況に対する処方箋は、地方分権の根幹ともなる財源以上を推進することである。この財源委譲なくして地方分権はなし、というのが基本なのだろう。

各党も、上記の認識においては基本的な部分は同じだ。ただ温度差があり、自民党は若干消極的、民主党は若干積極的といったくらいの相違しかない。ただ、両党ともに、そこまでしか言っていない点は問題だ。

地方分権を推進していくために解決しなければならに問題は、単なる税源委譲だけではない。地方自治体の行政執行能力の向上を図る必要があるのだ。地方自治体は、中央政府の構成で言えば、行政府(知事など)と立法府(議会)とによって構成される。その行政と議会の持つ行政能力に大いに問題があるのだ。

極端な例を出せば、村長と村議会議員を想起すればよい。地元の土建屋などの有力者が村長に就き、その取り巻きが議員をしていたり、村役場を定年退職した人柄だけのような人が議員をしていたりする。こうした例は、地方の多くの地方自治体に見られるのだ。筆者が経験したある地方自治体では、行政府の幹部が「ウチの議員は、全く勉強していないから、こちらの言うとおりに条例案を通してくれる。ただ、機嫌だけは損ねないようにしないと・・・・」と言う。その幹部にしても、発言などから推察される行政知識は、はなはだ疑問の残るものなのだが・・・・・。

行政と立法のそれぞれの機関が、もう少し有機的に機能し、かつ効率をもって機能するようにするシステムと体制を構築しなければ、地方分権が進めば進むほど、民主主義が想定する情況とはかけ離れた悲惨な実態を招きかねない。これは悲しいが事実だ。都道府県にしても、宮崎県を見てみればいい。知事が半分、東京にいてもそれなりに行政が動いているが、それはよくやっているというのではなく、元々動いていないところに、意味のない知事がやってきただけのことだと考えるほうが実態に即したものになるのだ。

都道府県でそのレベルなのだから、市町村レベルではそれは悲惨そのものだ。先日、山口県の防府市での災害時、被災者が市に対して住宅の問題を相談した際、仮設住宅の建設も、空いた市営住宅の提供も、全く考えていないとの回答があったと言っていたことは、市レベルの行政能力の実態を示している。防府市のレベルが決して低いのではなく、標準的だと考えるべきなのだ。

地方分権を考えるときは、そうした点も考慮し、各党の公約を確認する必要があるのだろう。

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2009年7月24日 (金)

就職活動と不景気:差別の再生?

大学生の就職活動は、まだ続いている。例年であれば、7月下旬ともなれば、ほぼすべての学生が内定をとり、卒業に向けて勉学に勤しみ始める時期でもあるのだが、今年はどうも様子が異なる。4年生の半分くらいしか内定が取れず、今でも熱心に就職活動を続ける学生が多い。

不景気だから就職活動も厳しいと考えることは間違ってはいないが、どうも不景気だから就職状況が悪いとも言い切れないものがある。特に顕著なことは、女子学生の就職状況の悪さである。男子学生と比較してもかなり優秀な女子学生ですら、就職の内定を取れていないケースが多過ぎる。

不景気になり、どの企業も新規の人事には慎重になっているようだが、その際、女子学生よりも男子学生を取ろうとする企業が多くなっているようだ。つまり、結婚、出産、子育てなども多くの休みを取ることの多い女性より、無理を言って働かせることのできる男性の方を優先的に採用しているようなのだ。

企業の思惑を全く理解できないわけではないが、それでは社会が成り立ち得ないと言うことで、男女雇用機会均等法などの立法が行われたのだ。現在、進行しているような状況が進めば、少子化はより進み、高齢化社会を迎えたとき、就労人口が負担しなければならない社会保障費などの負担は大きくなる。負担に耐え切れなくなれば、社会保障制度そのものが崩壊してしまうことさえ、現実味を帯びてきているのだ。

政治の役割は、秩序を維持することもあるが、それ以上に社会の中に存在するさまざまな利害を調整することである。今こそ、政治が指導性を発揮して、現在の就職状況の中に潜む男女差別を再生産しつつある状況を積極的に打破すべきなのだろう。

まあ、できなければ、近い将来、社会構造の歪曲は耐えられる限界を超え、さまざまな社会保障制度そのものが崩壊してしまうだけだ。

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2009年7月23日 (木)

各党政策点検①:定額給付金

総選挙が実施されることになったので、ここで、この4年間の各政党の政策をチェックしてみたいと思う。個人が思いつくままにすることなので、包括的なチェックは出来ないことを、まずは確認しておく。

筆者がまず確認したいことは、導入時から疑問や反対の意見が多かった定額給付金である。定額給付金は、2009年に実施された。今年のことである。忘れてしまった人も多いかと思われるが、今年のことなのだ。

定額給付金の支給に関しては、公明党からの強い要望を麻生首相がのむ様な形で実現した。公明党は、「庶民の味方」を自負しており、個人消費を刺激するためには、個人に直接、還元される形をとろうとしたかったためである。当初、自民党は、所得税の減税という方法で個人消費の喚起をしようとしたのだが、これでは納税していない低所得世帯には一切影響がないということで、低所得世帯に反映する政策を採ろうとしたところ、公明党の要求を呑まされたというのが、実態に近い見方だろう。

公明党の要求した定額給付金は、以前にも同じようなものがあった。1999年に支給された地域振興券というものだ。子ども(15歳以下)、老人など、一定の条件にかなったものに対して、一律2万円を支給した。このときは、現金ではなく、地域振興券というクーポン券を配布し、一定の域内でしか利用できないなどの制限を設けていた。

この地域振興券による経済波及効果は、最も波及効果が高いと推定している経済企画庁の調査でも、日本のGDPを0.04%程度押し上げたとするものだった。他の調査の中には、地域振興券の多くは、貯蓄に回り、日常消費財に利用されただけで景気を押し上げる効果はほぼなかったとするものすらある。総額約6200億円もの税金を使った挙句のことであった。

政権与党として「活躍」する公明党の提案は、地域振興券に見られるように、国民受けすることだけを狙ったものとも考えられる。また、公明党の支持基盤である創価学会の信徒の支持を引き付け続けることを狙っただけとも考えられるのである。地域振興券を発行した資金は税金であり、その財政的負担は、地域振興券の恩恵に一切あずかることのなかった国民にも「平等」に負わされることになったのだ。

あれから10年して、再び同じ轍を踏んだ。創価学会という支持基盤からの指示がなければ選挙を戦えないと考えた自民党は、公明党の全く意味のないバラマキ政策を無批判に受け入れざるを得ないほど、公明党に忠誠を誓ったのだ。

定額給付金の支給の開始は、今年(2009年)の3月ごろだった。今は、7月。わずか4が月しかたっていないにもかかわらず、定額給付金の存在は忘却されてしまった。定額給付金が支給されたことで、個人消費は刺激されたのだろうか。景気を押し上げる効果はあったのだろうか。???????????、疑問だ。

瞬間的な国民ウケを狙う政策は、少しでも時間がたてば、その効果を失い、かえってその財政的負担に思いが及ぶようになる。それを考えたとき、定額給付金というものは、どのような経済的効果を持ったのかを冷静にかつ的確に判定する必要があるのだ。現時点で、その経済的効果を判定することは時系列的に無理だが、近い将来、その判定が下されたとき、麻生政権が主張したような効果など存在しなかったことが判明するだろう。地域振興券の結果はそうした推測をかなりの程度で正しいものとしてしまう。

こうした愚作を国民は忘れてはならない。定額給付金で得したのは、支持団体から言われて実施した公明党と、その支持基盤だけなのかもしれない。その他の人々は負担だけがのしかかってきている。

麻生首相は、民主党のマニフェストに掲げられる政策を、バラマキと批判し始めている。まるで天に唾する浅ましいばかりのことだ。

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2009年7月22日 (水)

総選挙序曲の始まり

昨日、衆議院が解散された。それに前後して、麻生自民党総裁は、最近の情勢に関する反省と謝罪を述べた。「あれ?」と思ったのは筆者だけではあるまい。

自民党内部の集会では、党内が分裂してはさらに有権者の支持が離れてしまうと思い、一致結束する様を見せようと躍起になっている様子が痛々しかった。麻生おろしを画策してきた中川秀直元幹事長ですら、麻生首相と硬い握手を交わした様子をテレビで見たときには、痛々しい思いを感じるとともに、あまりの空々しさに反吐が出るような嫌な思いをした。

ただここまでは、自民党が一致結束する様子を示すことは一種の選挙用のパフォーマンスとして理解できるのだ。しかし、「さあ、これから選挙だ」というときに、自らの政策を反省し謝罪するような人物が与党のリーダーであることは全く理解できない。本来であれば、政策の責任者が反省し謝罪するときには、その役職を辞任するのが当然なのではないだろうか。ご本人の言葉をそのままご当人に向けたい。「それはあまりにサモシイですよ。政治家としての矜持を欠いた行為なのですよ」と。

今朝に新聞にはすでに、自民党の選挙向けの広告が掲載されていた。そこでは自民党と民主党の政策を3つにしぼり、その相違点を掲げ、民主党の政策を批判していた。自民党サイドの民主党への批判には、あまりに己に都合のよいような解釈ばかりで、疑問ばかりが先立つようなものであった。呆れ果ててしまう広告なのだが、それを広告として掲載する政党が政権与党であったのかと思うと、日本政治も世も末だとの思いを深くさせられた。細田幹事長が、責任政党として責任ある政策を実施しているのが自民党だ、という趣旨の発言をしていたが、それを広告として掲載したものが、あれかと思うと、愛想を尽かしてしまう人が多いのではないかと、哀れみすら感じた。

現時点での趨勢は、民主党に優位に推移しているようだが、自民党には、その趨勢に抗おうという気はないのだろうか。かえって、民主党優位の趨勢にさらに追い風を送ってしまっているような気がしてならない。末期に至った政党とは、こんなものなのだろうか?

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2009年7月21日 (火)

衆議院解散について

前回の4年前の総選挙は、「郵政選挙」と呼ばれ、選挙で問われることがハッキリしていた。その問いの立て方に、政権による誘導と極端な単純化があり、批判にさらされはしたものの、国民としては分かり易い選挙でもあった。

今回の総選挙はどのような選挙になるのだろうか。一体、何を国民に問いかけようとするのだろうか。麻生政権は、国民に何を問い、どのようなことについて審判を下せと言っているのだろうか。全くもって、理解できない。

あえて、今回の総選挙で問われていることをあげるとすれば、自民党政権は国民の信任に応えたのかどうか、ということなのだろう。多くの国民が、民主党に大いに期待して、民主党の支持が集まっているわけではない。自民党政権のあまりのふがいなさと国民との乖離に嫌気と不信感が高まっているというのが実態であろう。

米国の大統領選挙では、「Yes, We can !」というフレーズで人気を博した候補が大統領に当選した。少なくとも、米国には変化を感じることの出来る雰囲気がある。今の日本はどうだろうか。あまりの停滞感とよどみ感の中で、変化が可能なのかどうかすら感じ取ることが出来ない。

今の日本を批判するとき、官僚政治、新自由主義に基づく格差社会、下流社会などなど、色々な表現があるが、あえてこれからの日本の進むべき方向性を指し示すような標語は一切見当たらない。小泉政権の「構造改革」という標語は、その実態があまりに期待とかけ離れていることはあるが、少なくとも国民に変革の期待を抱かせた。国民を欺いた標語なのではあるが、いまは、それすらないのだ。

ただ政権が交代すれば、政治がよくなるという期待は抱かないほうがよい。細川・羽田政権がその実例だ。政権交代は目的ではなく、あくまでもその後の日本政治に起こることが期待されている変革をもたらすための手段なのである。そうした視点で、今回の総選挙に望みたい。

来月末、新しい日本政治の枠組みが決まる。これは、日本政治が変革するとすれば、ラストチャンスとなるであろう。

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社会保障制度の世代間格差

日本の社会保障制度の根幹を成す保険・年金制度は、原則として国民皆保険・国民皆年金を謳い、世界に誇れる水準を保つはずであった。原則論としては正しいと思われるが、その運営と運用主体のいい加減さが、世界に誇るはずの保険・年金制度をズタズタにしてしまっている。

年金制度が開始される頃、当時の厚生省幹部による文書が問題になったことがある。発表されたのは、厚生省のOBたちでつくる親睦会の会誌の中であったので、思わず本音を記したのであろう。そこでは、これから集められる年金資金は、長期的に厚生省が運用するものであり、その実態は厚生省の中でしかハッキリしないものなので、厚生省の職員のために効率的に運用していく必要があると記されていた。国民のためでなく、厚生省職員のための運用が強調されていたのである。加えて、20年、30年たった時点で何らかの問題が生じようと、その責任は追及されるはずもなく、誤魔化しさえすればよく、その時に対応すればよいとも記されていたという。

年金基金を運用する権限をもつ(換言すれば義務も持つのだが)厚生省の職員からしてこの有様である。政治家たちの思惑は何をかいわんやである。グリーンピアなどの施設が建設された場所の多くは、有力な政治家の地盤であることからして、状況証拠は限りなく「クロ」なのだ。

まあ愚痴っぽい話しはこれくらいで、本題に戻る。日本の年金制度は、厚生省の思惑通り、現在、ズタズタにされてしまっている。年金制度は、就労世代が高齢者を養老することをその制度の基本の一つとしているが、就労世代の年金制度への加入率が、あまりに低すぎるのである。ただでさえ、少子化の影響で年金需給人口に対する就労人口が減少しているのに、さらに加入率自体が低いとなると、制度の維持すら困難になるのである。

今、年金制度を維持するためにさまざまな施策が取られようとしているが、それらすべてが、年金を受給する世代への悪影響を出来るだけ少なくしようとする方向である。ここに大きな問題がある。日本を戦後、復興し発展させた世代ではあるのだが、同時に、今のような混沌とした社会情勢を産み出してしまった世代でもあるのだ。その責任をすべて若い世代に負い被せようとしているようにも思える。

世代間の平等な負担があってはじめて、年金制度は長期的に安定して維持できるものである。にもかかわらず、世代間格差がこれほど大きくなってしまうと、若い世代が現行の制度に加入しようとしなくなるのも当たり前である。

マクロな視点で見れば、以上のような状況なのである。これをミクロな視点で見れば、現在、20~30歳代の就労者の親が年金を受給している世代となる。つまり、親の生活を安定させ維持するための年金制度に、その子どもたちが加入しないほうがよいと思い始めているということだ。すべての世帯に、上記のことが当てはまるわけではない。年金に加入していない親も多くいるし、今問題とされている加入記録の不備で年金を受け取れない世帯もあると思われるからだ。ただ、かなりの部分が当てはまるであろう。

極端な言い方をすれば、親の世代が、老後、安定して安心して暮らしていけるように年金制度をつくったものの、その制度の維持をいい加減にしたため、また自分たちに都合のよいように年金資金すら使ってしまったために、制度を維持するための負担が大きくなってしまった。子どもたちは、その負担の大きさに耐え切れなくなり、親に、自活してくれ、といい始めている、とでも言えばよいだろう。自業自得ともいえる。

年金制度を維持することばかりにこの問題の視点が向いているが、年金制度は世代をまたいで維持していかなければならない性格を持つものでもある。世代間の負担と受益を平等にしない限り、長期的な制度維持など期待できるはずもない。若い世代は、ただでさえ新自由主義の影響を受け、「自己責任」という義務を負わされ続けているのだ。若い世代はその「自己責任」の掛け声どおり、これからの人生を自らの智慧と能力で支えていくだけで精一杯であり、親が作った強制的な負担には応えなくなりつつあるのだ。

いい加減な試算ばかり提出してくる厚生労働省や、いい加減なことばかり言い放つ政治家、特に大臣などの虚言に、簡単にだまされるほど、若い世代はバカではない。表立って批判するようなことはせず、単に不服従の精神で抵抗するだけだ。最終的に困ってしまい、生活さえ維持できなくなるのは、・・・・・・・。

掛け声だけでなく、外面だけよくするのではなく、実質を伴った福祉政策の再建が、今の日本に求められているのだろう。

先日、テレビを見ていたら、バングラディシュからやってきた留学生が、「先進国で豊かな国だと思っていた日本でも、炊き出しに集まる貧しい人々が沢山いるのですね」と驚嘆していた。その素朴で的を得たコメントに、なんともいえない寂しさを感じてしまった。

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2009年7月17日 (金)

さもしい首相?

昨夜(2009年7月16日)のテレビ・ニュースでは、自民党議員たちが両院議員総会を開くか開かないかという問題が取り上げられていた。議員たちの喧騒に対する麻生太郎総裁のインタビューが面白かった。

麻生総裁は「私は逃げない」ということを強調して言っていたが、それを聞けば聞くほど、この人は麻生おろしから逃げているんだなあ、と思わされてしまった。自党のメンバーから自民党所属の代議士の意見を聞く場を設けるように要求され、それに対する答えが「逃げない」では、通常の感覚ではおかしいのではないだろうか。通常の感覚では、「分かりました。開きましょう」であり、何も逃げる逃げないということを問題としているわけではないのだ。

このインタビューを聞きながら、麻生総裁はかなり追い込まれているんだなあ、と思いつつ、同時に、選挙が終われば自民党総裁と内閣総理大臣を辞任する(する可能性の高い)人物をトップにいただいて選挙戦を戦う自民党議員に、ほんの少しだけだが、同情してしまった。

麻生首相・自民党総裁については、彼自身が以前言った「さもしさ」を感じ、権力にしがみつく人物の浅ましさと意地汚さを感じさせられ、反吐が出そうであった。

ただ、自民党議員もいい加減にして欲しいものだ。総選挙の直前になって、またもや首のすげ替えを画策するとは・・・・。政治家に期待される国家・国民のための政治をどのように考えているのだろうか。私利私欲のためだけに政治をしようとするような輩は、政治家になるべきではない。確か自民党代議士の言葉だったと思うが、まさに「顔を洗って出直してこい」だ。

都議会選挙に関する総括もはなはだ滑稽だった。自民党敗北の責任は、党本部の分裂状況のせいだとする総括には、この方々には「反省」というものがないのだなあ、と思い知らされた。都議会の自民党が敗北したのは、業績不振に陥っている新銀行東京に対するあまりに不明朗な追加資金の追加に、さすがの都民も呆れてしまったという要因はなかったのだろうか。都民を小ばかにした都知事を支え続けてきたツケが、今ここで、東京都自民党に跳ね返ってきたとは思わないのだろうか。己の反省も出来ないものが、何を言うか、という思いであのニュースを見ていたと移民は多いと思う。

まあ、トップがさもしければ、その下に連なる連中もさもしいということのようだ。

ちなみに、「さもしい」という言葉の意味は、「1 品性が下劣なさま。心根が卑しい。意地汚い。2 見苦しい。みすぼらしい。」というものだ。(引用:http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=0&p=%A4%B5%A4%E2%A4%B7%A4%A4) なんとなく、今の自民党に当てはまるような気がしてならない。4年前の活気はどこに行ってしまったのだろうか。

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2009年7月16日 (木)

検察・警察という組織の問題

小沢民主党代表代行の公設秘書に対する西松建設からの政治献金に関わる政治資金規制法違反容疑の事件で、本来、公正でなければならない検察が、政治的にも自民党側(権力サイド)へ偏向していることが明らかになった。このブログでも何度となく指摘している。警察も、検察以上にタチが悪い組織と化してしまっている。

こうした見方は、筆者の偏見かとも思っていたのだが、必ずしもそうではないようだ。

新党大地の代表である鈴木宗男衆議院議員が国会の委員会で面白い質問をしている。以下に、抜粋してみたい。<平成21年6月10日、衆議院決算行政監視委員会 5号

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<前半、省略>
 我々(国会議員)にも平気でそう言う者が、一般の人に面と向かってやる場合、もっと乱暴だと思いますよ。そういったことを考えるときに、冤罪が起きるんです。だから私のときも、やまりんというので東京高裁で採用された文書ですよ。吉田正喜というのは、今たまたま西松事件をやっている検事ですよ。これが、政治家に金を持ってくるのはお願いかお礼しかない、どっちだと言って誘導している。
 それで、皆さん、証人尋問で呼ぶとき、四日前から東京地検に呼ばれて、QアンドAなんですよ。検事はこういうのをつくるんです、QアンドA。こういうことを聞くからこう答えろ、大事な部分は線を引いて、こういうところはしっかり覚えておけと。この山田さんも四日前から呼ばれている。これはちゃんと東京高等裁判所第六刑事部で採用された文書ですから。
 皆さん、これが捜査の実態なんです。だから、これは与党、野党なく、可視化をしなければ冤罪はなくなりませんよ。
 あるいは島田事件、私の裁判をやっている島田さんで、夫の話ですが、検察官はあらかじめ文章をつくっていて、その表現内容が夫の認識と違うと言っても受け入れてくれず、どのように対応したらいいか困っているということでしたと。これがやり方なんですよ。これは与党、野党を問わず、ねらわれたら終わりですよ、つくられますから。そしてリークして世論誘導しますから
<以下、省略>

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国会の委員会で、国会議員からこれだけあしざまに批判されながらも、こうした質問に対する法務大臣(森法務大臣)と官僚の答弁は、同じことの繰り返しに過ぎなかった。足利事件の菅屋さんが聞けば、どのように思うと考えているのだろうか。

鈴木宗男議員も、外務省から外務省という組織防衛のためには不必要な人物として切り捨てられた。鈴木議員が起訴された事件は、当時、新聞紙上でにぎわっていた事件ではなく、全く筋違いの些細な事件で、しかもそれは、違法性を問うことが出来るかどうか非常に問題のある事件である。それを検察は総力を挙げて事件化してしまったのだ。

鈴木議員が指摘するとおり、国会議員ですら、このような有様なのだから、一般の個人に対しては何をか言わんかやである。志布志事件、高知白バイ事件など、警察と検察は、無実の人物を平気で犯罪者にしてしまうのだ。裁判所も時には、その片棒を担いでしまっている。

今の検察・警察は、基本的に信用してはならない組織と課してしまっている。しかし、検察・警察という組織には本来、信用がなければだめなのだ。検察・警察に対する信用が失われた社会は、悲惨だ。国家は破綻し、崩壊してしまうことになる。

どうにかしなければならないのだが、現状では期待できない。個人的には、来月の総選挙で民主党が勝利した後、鈴木宗男議員を外務大臣に、小沢一郎代表代行を法務大臣にすることで、問題の多い、伏魔殿を改革させてしまうことも面白いと思うのだが・・・・・。ちょっと過激かな?

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国家を考える政治家と、私利ばかり考える政治家

政局が激しく動き始め、来週には衆議院も解散される。解散が目前に迫った時、その政治家の本性が現れてくるのだろう。面白い現象が散見されるようになっている。

まず一つは、国家がどうなるかなど考えることなく、単に自分だけが当選すればよいと考え、私利私欲のみで行動し始める政治家が現れ始めた。麻生首相の支持率が低いため、このままでは当選できないと考えた自民党議員の中にこの手の政治家が多い。

両院議員総会の開催を求めようとする議員の中には、1年前の総裁選挙のときのご自分の投票行動を忘れてしまっている方が余りに多いようだ。中には、麻生首相に投票したことを明言し、その上で、ご自分の考え方が変更したことを説明する議員もいるので、すべてではないが、1年前の自分の投票行動を忘れ、目前の選挙のみで行動する議員の方が多い。彼らが投票した麻生首相の言葉を借りれば、まさしく「さもしい」限りであり、議員としての「矜持を忘れてしまった」人たちだ。

第二は、自分の立場を死守しようと、国民生活のことなど考えずに、己の派閥に所属する議員に対してさまざまな拘束をかけ、自分は偉いのだ、ということを誇示しようとしている人たちだ。自民党最大派閥のまとめ役の方(北海道)などは、「党が割れることがあってはならない」と主張するが、かつて自らもある元幹事長(広島)と派閥ないの指導力をめぐって派閥を分断させるかもしれないほど対立を示していたことを忘れられたようだ。

でもこうした自民党議員の方々はある意味で、興味深い。森元首相は、ご自分の選挙区に30代の美人が民主党から立候補したため、落選する可能性が生じてしまっている。これまでの森元首相の政治的キャリア・業績を考えれば、磐石なはずの選挙基盤が、単に美人が立候補したというだけで落選の可能性が生じたというのも、面白い。それだけ、元首相のキャリアはつまらないものだったのだろうか、と森元首相に同情を禁じえない。

自民党最大派閥を率いる町村元官房長官にしても、選挙には元々強くはない上に、昨今の自民党に対する逆風のため、落成してしまう可能性が高くなっているという。自民党最大派閥を率いる政治家が、磐石な政治基盤を有していないことに、呆れてしまうほどだ。しかも町村氏は、北海道では歌手の松山千春さんの支持を受けて強い政治基盤を持つ鈴木宗男議員の影響で、落選さえ噂されるまでになっている。

中川秀直元官房長官も、その政治基盤は磐石ではない。息子が地元の市長選挙に出馬するものの、現職候補に大差をつけれらて落選したことは、今でも尾を引いているといわれている。また、官房長官に就任している間に、女性問題が噴出し、官房長官の辞任に追い込まれたことは、中川氏自身の今後の政治的成長が閉ざされたことを意味している。

自民党議員を中心に批判してきたが、現、野党にも呆れた人たちがいる。第三の点であるが、自民党の揚げ足ばかりを取り、敵失を強く期待し、自らの政策を明確に打ち出せずにいる政治家の方々だ。民主党代表の鳩山由紀夫氏は、非核三原則に対して持説を持っているようだが、それを時折小出し的に出し、批判があると引っ込めるという姑息な手段を弄している。時節があるのであれば、堂々と議論すべきだろう。民主党の最大の欠点は、安保政策などの基本政策のいくつかではっきりとした方針を打つ出せずにいるということである。

当然、自民党にしても幅が広い。ただ自民党は安保に関しては一致している。これからの日本の安全保障政策を考えるとき、安保は一つの核になるが、さらに国連を中心として国際協力、言い換えれば平和維持活動などへどのような貢献をするのかという問題も、政権与党には突きつけられる課題である。

アメリカの一部の艦隊だけがあればよい、とか、非核三原則の見直しを示唆したり、麻生首相以上にぶれる民主党の安全保障政策はあまりに頼りない。党内事情、社民党・国民新党などとの協力関係の維持など、安全保障政策を議論するには制限が多いことも理解できるが、民主党が、党としてどのような基本方針を考えているかを示す必要が、今こそあるのではないだろうか。

かつて社会党党首を首班とする村山富市政権が樹立された時、社会党は、それまで反対し続けてきた安保や安全保障政策を、ほぼ議論することなく180度転換した。あの時は、笑った。本当に心のそこから笑った。アホ、かと。あの時、社会党に信念などないのだ、単に政権に就くことだけですべてを放棄してしまったのだと、呆れに呆れた。あのときの失望は、今の自民党政権に対する失望などよりもより根本的な失望であり、二度と社会党など信用すまいと決心させた。それと同じ轍を民主党は歩むことになるのだろうか。

まあ、どんな意見を筆者が持っていようと、結論は来月末には出るようだ。その時の結果はいかなるものであろうと、国民の民意を表明したものになる。国民の民意がどのようなものかを、早く知りたいとワクワクしながら待つことにしたい。

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2009年7月15日 (水)

動く政局、試される民意

日本政治が大きく動き始めた。これまでの自民党を中心とした政治運営が、大きく揺らぎ始めている。来月によていされる総選挙は、「自民党か、民主党か?」の政権選択の選挙になるといわれている。しかしそれだけなのだろうか?

今回の総選挙は、前回、2005年のいわゆる「郵政選挙」と同じく、イメージが先行しているように思えてならない。郵政選挙では、当時の小泉首相の「民営化に酸性化、反対か」というワンフレーズに国民が踊らされ、当時、国民生活にとって最も重要な争点が霞まされてしまった。今回は、「政権選択」というフレーズに象徴されるように、自民党か民主党かのオプション選択に矮小化されてしまっているような気がする。

自民党と民主党。この両党に大きな政策的な際は存在しない。現在、民主党で指導的な立場にいる人々のほぼすべては、以前、自民党に所属した経験を持つ。鳩山代表、小沢代表代行、岡田幹事長然りである。菅代表代行だけが自民党に所属した経験がないくらい。

政策の面でも、年金などの社会保障制度に関しての相違はあるものの、自衛隊問題や憲法改正問題など基本政策に関する部分では、自民党との相違を見つけることは難しい。自民党の内部のもこの分野での差異があり、民主党内部での差異とを比較すれば、両党の中には、重なり合う部分すら存在する。

ただ、自民党という組織が長年にわたり政権を担い続けてきた結果、生じているさまざまな制度的疲労や腐敗、官僚機構への過度な依存と官僚の増長など、問題が顕在化してきている。自民党の自浄能力だけではすでに解決が困難になってきているのも事実である。政権政党が変更されることによって解決可能な問題があることも指摘できるのである。

そうした政権選択により、解決が可能な部分と、解決が困難な部分とを十分理解しようとし、日本の政治を他人任せにするのではなく、どのような社会を望んでいるのかを表明しようとする民意が、今こそ、試されているといえる。

他人任せにするような民意は、いずれシッペ返しを食らうことになる。4年前の郵政選挙を想起すべきだ。当時の小泉首相は、民営化すべきかどうかだけを国民に問うた。その問いかけに深く考えることをしなかった有権者は、民営化されれば、社会を停滞させているさまざまな政府の規制が緩和されると思ったのだ。事実は、当時から予想されていたとおり、官僚に有利なように、一部分の規制は緩和されたものの、新たな規制が生じ、逆に活動しにくい社会が形成されてしまった。この経済危機という情勢の中でも、官僚の天下り先だけは優先的に確保するための大型補正予算が作られることになったのだ。

官僚には、確かに優秀な人物が多い。しかし優秀な人物が必ずしも、社会をよくするとも限らないのだ。世論の監視がないところでは、なおさらだ。

今、民意が試されているのだ。その民意は、いかなるものであろうとも、民意であり、日本の政治を大きく規定してしまうものとなる。さあ、どうなるのか。楽しみだ。

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2009年7月13日 (月)

日本の転換点

国際社会に1970年代以降、蔓延していた保守主義的傾向がこの所、弱体化してきている。新保守主義の論客の一人、フランシス・フクヤマ教授も、保守派の論理のすり替えとご都合主義的な利用を批判し始めている。

日本ではどうか。1980年代の中曽根内閣以降、国際社会や米国の政治的動向に大きく影響され、保守的な風潮が強まってきていた。小泉政権などはその典型だ。小泉内閣は、ブッシュ政権との密接な関係を構築し、新保守主義・新自由主義などと称される政治風土と政策パッケージを日本政治に強く根付かせようとしてきた。小泉内閣の経済閣僚として入閣していた竹中平蔵氏などはその典型だ。

しかし日本政治に蔓延していた新保守主義的な趨勢も、米国や国際社会と同様、次第にその論理的矛盾と論理的錯誤(簡単に言えば、ウソ)を引き起こす傾向に気付き、その趨勢は弱体化しつつある。実際に、これまでの政治家が言ってきていたことが全く実現せず、社会の中の格差が実感できるほどに拡大してきているという現実が、本来、政治というものに関心など抱いてこなかった人々に、逆説的に、政治への関心を高まらせることになった。

昨日(2009年7月12日)に実施された東京と都議選挙の結果は、それを象徴するものだ。投票率も、4年前(2005年)の約45%から、54%へと上昇している。都議選挙とはいえ、都民の関心が薄らいできた昨今の選挙事情を勘案するならば、それだけ都民の政治に対する関心が高まっているということを示していると考えるべきだろう。

当然、投票する人が支持政党を持っているわけではない。世論調査などでは無党派層が拡大し、有権者の半数以上を占めるまでになっている。彼らは政治に関心がなく、支持政党がないのではない。むしろ、政治がうまく機能している限り、まかせっきりにしたいと思うような、どちらかといえば学歴も高い人々だ。無関心であることが出来るうちは無関心でいたいと思っている人々なのだ。そうした人々に、このままではダメだと思わせるような状況が生まれてきている。

麻生首相は来月後半(2009年8月)での総選挙実施を決意したとの報道がある。遅きに失した観は拭えないが、それでも伸ばせるだけ伸ばしておこうという姑息な手段を用いるよりはマシといったところか。この総選挙、日本政治の大きなかつ重要な転換点になるだろう。国民の安心が満たされる社会を形成できるかどうかは、この選挙の結果に大きく依拠している。

ようやく日本政治も動き始めたというところだろう。今後、どの方向へ日本政治が進んでいくのかは、現時点ではわからない。アメリカが陥っているような独りよがりの道を突き進もうとしているのか、あるいはヨーロッパ諸国が模索しているような国民の安心と安全を追及しようとするのか。国民の判断はどちらなのだろうか。

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2009年7月12日 (日)

目指すべきものは何か?

今、東京都議選挙が投票されている。今夜遅くには結果が出るらしい。その結果によっては政局が、内閣総理大臣の意思とは別に動き始めることになるとも言われている。なにやら政局、政局とうるさいくらいだ。だが、今一度立ち止まって考えてみる必要もある。

政局としては自民党がいいとか、民主党がいいとかということになるのかもしれないが、要は国民が安心して暮らせていける政治を運営できるかどうかだろう。国民が豊かな生活をしていると感じることが出来れば、多少の不具合には国民は目をつぶり問題にもしない。これまでの日本の政治を見れば明らかだ。自民党という政党が1955年以降、一時的な中断だけでこれまで一貫して政権与党でい続けることが出来たのは、少なくとも、自民党が国民に豊かで満足できる政治を与えてきたからである。例え、事実はそうでなくとも、国民の多くはそのように認識していたのだ。

しかし昨今の事情は異なる。自民党政治を擁護しようとする人たちは、民主党が政権をとったところで何が変わるというのか、と主張する。実際、もし民主党が政権を取ったところで多分、大きな変革は起きないだろう。ただ、これまで最低限であろうとも満足感を与えてくれていた自民党に対して、国民の多くが失望感を持っている、あるいは持ち始めていることが今の政治情勢に大きく影響を与えているのだ。

自民党に対する失望感がどのような原因を持つかについては、このブログの中で折に触れ記しているので、ここでは省略する。ここで問題視したいことは、自民党が、国民に対して満足よりも失望を多く与え始めているという現実である。

小泉内閣の時、国民の多くは、小泉首相の公約の結果については考えなくとも、小泉首相の発言に大きな期待をしていた。世の中がよくなると信じていたし、官僚などによる国民の財産の収奪は終結させられると信じ込まされていた。現実や結論ではない。そのように認識していたことが重要なのだ。

現在の麻生政権にその神通力は望むべくもない。麻生首相に対して、このブログでは強く批判をしている。政権を担っている人物なので、批判されることが重要だと思っているからだ。客観的に、俯瞰的に観察すれば、現在の情勢は、単に麻生首相のみに責任があるわけではない。その前の福田政権、安倍政権にも多大な責任がある。二人とも政権を放り出して逃亡したのだから、ある意味では麻生首相よりもタチが悪い。なかでも、安倍元首相は、今では麻生政権のフィクサーになろうとしているかのような報道もある。もしそれが真実であるとすれば、安倍晋三という人物の本性の浅ましさには呆れるばかりである。

話は戻る。今後、自民党政権が続くのか、あるいは民主党政権に変わるのか。どちらにしろ、何よりも重要なことは、国民の生活である。両党ともに、字ずらは異なるものの同じことを繰り返し主張している。国民は、政党が言う公約・マニフェストを今回のものだけを見るのではなく、前回のマニフェストなども見返しながら、国民生活にとってどちらがよいのか、という視点を忘れるべきではない。

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2009年7月10日 (金)

建物入口の喫煙スペース

最近、禁煙が進み、建物の中でタバコの被害を受けることが少なくなっている。よいことだ。ただ非常に気になる不愉快なことが一つ、残っている。それは、建物の入口に設置されることの多い灰皿だ。

あの灰皿。多分、外から建物に入る喫煙者のために、タバコを捨てるために設置しているのだと思う。でも実際は、喫煙者が我が物顔で、ここでタバコを吸って何が悪いという態度で、ぷかぷかとタバコを吹かしている。そのため、建物に入ろうとするすべての人が、あの不愉快でくさい匂いと、毒を含んだ煙とに遭遇させられてしまっているのだ。

タバコの煙は有害な毒煙なのだ。しかも胸を悪くする不愉快な匂いを撒き散らしている。

タバコを吸う人間にもタバコを吸う権利があると主張する人もいる。そのとおりだと思う。現実に日本でも世界でも、タバコを吸引を全面的に禁止する法律はない。喫煙権もあると思う。しかし同時に嫌煙権も存在するのだ。タバコには有害物質が含まれているために、タバコを吸う人は、タバコを嫌う人がその有害物質に接触することがないようにする義務があるはずだ。でなければ、喫煙権など主張することは出来ない。そのような一方的な権利主張は、義務を放棄することであり、保護する価値のないものである。

スーパーやデパート、官公庁や関連施設。ほぼすべての建物の入口に灰皿が設置されている。灰皿は、建物の入口に設置するのではなく、入口から離れた場所に設置すべきだ。出なければ、建物を利用する人の嫌煙権の保護だけでなく、健康維持にも大きな影響を与えかねないことになる。

一部の地区で、歩行喫煙を含む喫煙そのものを禁止され始めている。嫌煙者にとっては当たり前の権利主主張だ。だが、あまりにやりすぎてしまうことにも問題がないわけではない。公共スペースでの喫煙の全面的禁止、もしくはタバコの値段を法外に上げてしまうことなど、喫煙に関する環境は厳しすぎるものになっていくだろう。そうしないためには、現在の時点で、喫煙者のマナーの遵守とともに、嫌煙者に対する権利の保護を十分に行う必要があるだろう。

今のままの状態が続く限り、近い将来、次のような状態がもたらされることは間違いない。つまり、タバコは一箱が1000円以上、公共スペースでの喫煙の全面的禁止、レストランや飲み屋など不特定多数の人が集まるスペースでの喫煙の全面的禁止、歩行喫煙の全面的禁止、喫煙禁止を破った場合の罰則の強化(罰金10万円以上など)などである。

異常の状態をすでに実施している国もあるのだ。嫌煙権が早い段階で確立されたオーストラリアなどがその例である。

筆者は嫌煙者であるが、それでも喫煙権を保護すべきだとも思っている。しかし今の趨勢は、喫煙権の漸進的な制限である。今のような状態が続く限り、この趨勢に変化は生じないだろう。タバコを吸う人は、自らの権利を守るためにも、嫌煙者の権利を守る努力をすべきだ。

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2009年7月 9日 (木)

荒む世の中

この頃、日本社会が荒んでしまっているように思えてならない。なぜ、ここまで荒んでしまったのか。先日、次のような悲惨な事件があった。

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駅前火だるま 職安職員「付きまとわれている」と相談
2009年7月9日5時0分

 千葉県野田市の東武野田線梅郷(うめさと)駅近くで8日朝、ハローワーク(公共職業安定所)職員の女性(40)がガソリンのようなものをかけられた上で火をつけられ、重傷を負った事件で、事件前、女性が職場の同僚らに「職探しの相談に来た人に付きまとわれている」と話していたことがわかった。殺人未遂の疑いで逮捕された無職樊玉萍(ファン・ユウピン)容疑者(45)=千葉県柏市北柏=とみられ、県警は、仕事が見つからないことを逆恨みして犯行に及んだとみて調べている。
 被害女性が勤務するハローワーク野田の所長らによると、女性は今年4月に現在の職場に異動するまで、同県柏市のハローワークプラザ柏で相談業務を担当していた。昨年8月ごろ、樊容疑者が同ハローワークに相談に訪れて知るようになったようだという。
 樊容疑者とみられる女は、被害女性が異動してからも、少なくとも5、6回、ハローワーク野田に顔を出していたという。被害女性は「帰宅途中に見かけた」「視線を感じる」などと同僚らに打ち明けていた。ただ、具体的に危害を加えられたことはなかったという。
 県警によると、樊容疑者は93年に日本人男性と結婚。97年に日本国籍を取得した。
<朝日新聞記事 :
http://www.asahi.com/national/update/0708/TKY200907080404.html
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無職の女性が、職を探しにハローワークに行き、そこで職を紹介してもらえないからといっての逆恨みが生んだ悲惨な事件だ。この事件を知ったとき、次のような危惧を抱いた。

①失業状況はここまでに深刻だったのか。
 失業が深刻であることは、さまざまな経済統計の数値が示している。しかし、統計で走ることの出来ない現実がこの事件によって浮き彫りにされている。まず、日本社会の中で外国人(この場合は中国人)に対する差別は強く残されている。特に就職の面ではその差別は強い。失業などの負の側面はまず社会的な弱者に向けられる。この事件の加害者の女性は、そうした意味で、単に就職できなかったというだけでなく、社会状況から就職先がないということだけでなく、日本社会が彼女に与えた有形無形の差別を感じていたのであろう。当然、彼女のしたことはその責任を問われるべきことである。ただそうした法的責任の所在の問題とは別に、日本社会の「余裕」がほとんどなくなってしまっている現実があるということが、この事件によって象徴されているように思える。

②逆恨みで人に火を放つほどに、暴力が社会に蔓延しているのか。
 恨みに思ったことをいかに晴らすかは、色々な方法があるだろう。お酒を飲んでクダを巻いて、忘れてしまうという方法もあるだろう。あるいはスポーツなど体を動かして忘れてしまうという方法もあるだろう。しかし近年、恨みを、恨みを抱かせた人物に対して晴らそうという傾向が強まっている。今回の事件では、火を放つというあまりに悲惨で卑劣な行為でもって、恨みを晴らそうとしている。しかも、被害者の女性に、そこまでの責任があるかどうかといえばないと考えざるを得ない。恨みを晴らすための手段があまりに過激で、常軌を逸している。暴力に訴えれば、どうなるかを考え直す必要があるのだろう。
 暴力は暴力しか生み出さない。いかなる暴力でもそれを正当化することは出来ない。それは例え国家であってもだ。暴力の連鎖を断ち切るには、問題解決の手段として暴力を放棄することからしか始まらないのだ。にもかかわらず、日本社会にさまざまな暴力が蔓延しつつある。世の中が荒むはずだ。

今回の事件で多分、中国人だからなどという論評が強まるだろう。特に、筆者が忌み嫌う2チャンネラーたちはそうした批判を氏がちになるだろう。だがことの本質は異なる。中国人だったら、すべて人に火を放つのか、日本人であれば人に火を放たないのか、という問に自ら答えてみれば、自明なことだ。

社会に余裕がなくなり、あまりに荒んだ結果、その「ウサ」が社会の中のさらに弱い部分へと向けられてしまっているのだ。日本社会の構造と現状を考えた場合、その問題はあまりに深刻であるといわざるをえない。なぜ、そうなったのだろうか?

答えを知っている人がいれば教えて欲しい。この問題はあまりに深刻でかつ広いために、簡単には答えが見つけられないのかもしれない。

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2009年7月 8日 (水)

治安維持の実態:警察官の質の低下は深刻

治安を維持することは国家に課せられた最も重要な任務である。国家にどれだけの任務を与えるべきかで、さまざまな国家論が議論されるが、そのどの国家論においても、治安維持活動は国家が行うべき任務であるとされている。

治安を維持する任務を担う具体的な組織は、軍隊と警察である。軍隊は、外国との関係においての治安を担当し、警察は国内における治安の維持を担う。軍隊と警察は、規律正しく、汚職などに染まらず、一定の指揮の下で任務に励むことが期待されている。

日本において、軍隊に関しては色々な議論がある。自衛隊は軍隊でないとかあるとか、憲法9条の規定から自衛隊という武力組織は違憲であるとか合憲であるとか、などなど。この議論は複雑で長くなるのでここでは省く。

警察に関しては、これまでその活動に大きな不満も見られないし、組織が根本から腐敗しているとはいえないような状況であった。そう、「あった」なのだ。今、日本の警察は、大きな岐路に差し掛かっている。

いかなる組織においても大人数の人間がいれば、問題を起こす人間がいるものだ。警察においてもそれは例外ではない。だから、一部のごく少数の警察官が問題を起こしたところで、それは問題を起こした警察官個人の問題だと考えられる。しかし近年、どうも警察官個人だけではすまないような問題が顕在化してきている。以下の記事(朝日新聞)を見ていただきたい。

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「警察官の証言信用できない」公務執行妨害、一転無罪に
2009年7月7日20時31分

 岐阜県警の警察官から運転免許の提示を求められた際に暴行を加えたとして、公務執行妨害罪に問われた岐阜市の無職の男性被告(72)の控訴審で、名古屋高裁(下山保男裁判長)は7日、「暴行を受けたという警察官の証言は信用できない」として、罰金30万円とした一審・岐阜地裁判決を破棄し、無罪を言い渡した。
 男性は昨年8月27日午前10時ごろ、自宅近くの路上で、後部座席の孫をチャイルドシートに着席させずに運転していたところ、岐阜北署の巡査長らから運転免許証の提示を求められた際の言動などに腹を立て、巡査長の胸を手のひらで2回突くなどの暴行を加えたとして、起訴された。
 判決は、巡査長が現行犯逮捕する際に男性を転倒させた場面について、「被告が体当たりをしてきた」とする巡査長の供述と、「両手首をつかまれ、できなかった」とする被告の証言を検討。一緒にいた同僚巡査の証言が被告と一致するのに対し、巡査長の証言は「男性を負傷させた行為の適法性にかかわる事情で、記憶に反する供述をした疑いが濃い」として、信用性が低いと判断した。

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この事件、色々と考えさせられる。被告の証言とその場にいた巡査の証言が一致していることは、被告が現行犯逮捕され、警察に身柄が移された後でもおなじだったはずである。にもかかわらず、「被告が体当たりをしてきた」とする巡査長の供述が信用され、立件・起訴されている。

警察はこの事件を、なぜ立件したのだろうか。裁判になる以前、検察に送致される以前の段階で、供述と証言の違いをなぜ真剣に考えなかったのか。巡査より巡査長が階級としては上になるので上司の主張を、事実の判別ではなく、信じたのか? 警察は警察官の言うことだけを信用し、そうでないものの証言は無視する組織となってしまったのか。そうだとすれば、現在の警察官の根本的な教育、もしくは入れ替えが真剣に検討されるべきだろう。

検察はなぜ、この事件を起訴したのか。第一審は、なぜ、この事件を有罪としたのか。被告に不利な証言のみを信用し、被告自信の証言・供述の信用性を吟味することはなかったのか。この事件の本質に、高知白バイ事件と同じものを感じる。つまり、検察は、現場の警察官のデタラメな調書でもそれを無批判に信用し、起訴するだけの機関に成り下がってしまっているということ。裁判所も、自らで事実を究明しようとすることはせず、単に検察官の言うとおりに判決を機械的に下すだけの機関に成り下がってしまっているということ。

検察にしろ、裁判所にしろ、問題は深刻である。しかし、より問題が深刻で早急に是正・改革する必要があるのは、現場の警察である。上記の事件では、「被告が体当たりした」と供述した警察官(巡査長)は、嘘の供述を行い、無実のものに罪を着せようとしたと考えられる。これは、これだけで十分に犯罪行為である。公務執行中の出来事に、警察官の一方的な思い込みで、逮捕するなどあってはならないことである。

確かに、公務執行妨害罪の規定が改正されて以来、この規定に基づく逮捕が急増している。現場の警察官の権威が薄れ、警察官の職務執行上支障が生じてきたための改正であったのだろうが、この改正は、より警察官の権威を喪失させ、警察そのものに対する信用さえも崩壊させつつある。

現場の警察官の多くは、単に経験のみに頼り、思いつきで行動を起こす者が多い。十分な法律上の教育が施されていることも少ない。よく「現場のカン」というが、それが生きてくるのは、そうしたカンを持つものに誰もが信頼する善良な資質があってこそである。現場のカンは、別の見方をすれば、現場しか知らない偏狭な見方でもあるのだ。

今のような状態が続けば、警察に対する信頼が喪失してしまう。警察という組織は、国家にとって最も重要な治安維持という職務が担わされているために、信頼を喪失してしまった場合、とんでもない事態に陥ってしまうことになる。そうならないためには、根本的な改革と再度の警察官に対する教育の強化が早急に望まれる。

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2009年7月 6日 (月)

政治とカネ:鳩山由紀夫代表の例

鳩山由紀夫民主党代表にも政治献金をめぐる不明朗な処理が問題視されている。故人や献金した覚えのない個人の氏名が、政治資金規正法に基づく報告書の中に記載されたりしていたらしい。鳩山代表は自ら会見を開き、この問題に関して釈明した。事件の原因は、秘書の起こした事であり、申し訳ないと説明した。岡田民主党幹事長は、この説明について、「十分納得した」と会見で述べた。

ウ~~ン。これまでの政治家の釈明会見を見てきていると、この説明だけで納得できる有権者は少ないのだろう。更なる説明責任と、もし仮に秘書がこの事件を引き起こしたというのであれば、その秘書自身が会見に登場し、釈明と謝罪をすべきことだろう。鳩山代表の次期政権担当政党(多分)代表としての政治家としての危機管理の手腕が試されているとも考えられる。

ただ、この事件、なんだか別の要因があるような気がしないでもない。小沢前代表の献金事件にしても、野党党首が槍玉に挙げられているという点では一緒である。小沢前代表への西松建設からの政治献金事件は、自民党の森元首相や二階大臣にも献金されており、それにもかかわらず、小沢前代表の公設秘書だけが逮捕され起訴されるという、あまりに政権与党に有利な処理がなされている。

また一部マスコミで鳩山代表の個人献金は、相続逃れではないかということが言われているが、それが仮に事実とすれば、すでに政治資金という手法を使って相続税の納付を逃れている人たちが自民党にも多いということを、同時に忘れてはならない。小渕元首相の後継者であり娘(実子)でもある小渕優子大臣は、小渕元首相の残した多額の政治資金を、あくまでも「合法的な方法」で、相続税を支払うことなく相続している。この問題を指摘するのが重要だと考えて、鳩山代表の政治献金問題を追及するのであれば、自民党側には、鳩山代表以上に道義的に問題のあることを合法的に行っている政治家が多いということも、同時に報道すべきだろう。

とにもかくにも、政治家をめぐり不明朗なおカネが動き回っているという事実は未だ存在し続けている。この現象をなくすための努力が今、求められているのである。鳩山代表の問題にしても、次期首相に最も近い人物だから不問に伏すべきだ、と言っているわけでもない。問題が違法であれば、適切に処理すべきだし、合法的であっても道義的・政治道義的に問題があるとすれば、それはそのように批判すべきだろう。

今、自民党の中で、鳩山代表のこの政治献金問題を厳しく批判している人物の多くの顔ぶれを見ると、「お前はどうなんだ!」と突っ込みを入れたくなる輩ばかりだ。当然、自民党の派閥の領袖といえども、鳩山代表と比較すれば、鳩山代表のより厳しい国民の視線が向けられるのは当たり前だ。何せ、最も次期首相の座に近い人物なのだから。これから政権与党から下野し、しかも衆議院総選挙で落選するかもしれない派閥の領袖とは異なるのだ!

だからこそ、鳩山代表に問いたい。この危機をどう乗り切るのか、が今、問われている。このような政治危機を乗り切れないような政治家に、日本の舵取りを任せても大丈夫なのかと、国民は鳩山代表の行動を見ているのだ。言い逃れ、沈黙、時間稼ぎ、などなど。これまでのカネにまみれた政治家とは異なる危機処理をして欲しい。

自民党の方々は、どうぞ、落選して、これまでの政治活動を心から反省して欲しい。サルは木から落ちてもサルだけれども、代議士は落選したら「犯罪者」になってしまう、とまで揶揄されている。どうなることやら?

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2009年7月 1日 (水)

構造改革と新自由主義

小泉政権下で実施された「構造改革」と銘打った政策パッケージは、「新自由主義」という政治的思想風土によって支えられてきた。まず新自由主義とはどのような考え方なのかを、明確にしておく必要があろう。

1970年代、二度の石油危機を迎えた国際社会は、それまでの右肩上がりの経済成長を期待することは出来なくなっていた。アメリカのニューディール政策に象徴される福祉国家という考え方は、第二次世界大戦後、国家の基本的理念になってしまっていたため、政府の財政支出は増加する一方であった。経済成長を続けている限りでは、財政支出を増大させても、その分、税収が増加するので、財政的には均衡したものとなっていた。福祉政策の増大させる政策は国民の生活水準を向上させたため、支持を受けることにもなっていた。

一旦、増大し始めた財政支出は容易に減少させることなど出来ない。国民の大きな不満を生み出すため、選挙を控えた政治家には到底、主張することの出来ない政策になってしまったからである。その分、官僚機構がうまく調整し、発言権を増し始めてもいた。

1970年代の経済不況はそうした状況の転機をもたらした。増大する財政支出と、経済不況による税収の減少。政府の財政赤字は増大し、将来に対する不安が生じ始めた。国民もバカではないので、簡単な算数によって、政府の表立った主張(将来に不安はないという主張)を信用できなくなりつつあったのである。

そうした状況で、大きくなりすぎた政府の中で、国民の反感を買うような現象が批判の的とされた。例えば、国営企業である国鉄の労働者のストライキは、法律上は禁止されているにもかかわらず、労働者の権利のみを主張し、ストライキを繰り返し、国民性かつに不便を強いている、と。冷静に考えれば、労働者が自らの権利を要求することは当然であるが、その側面は黙殺された。労働組合の活動の中に見受けられた労働者たちの勇み足的な権利主張(例えば、勤務時間内のお風呂など)は、矢面に立たされた。

今、冷静に考えれば、勤務時間内であろうと、必要な場合もあったであろうと思えるのだが、そうした見方は完全に黙殺され、「行き過ぎた権利主張」という批判が、世論の支持を受けた。現在の言い方をすれば、「民間の感覚」との乖離が大きすぎたということだろう。石油危機以降は、巣他ふぐレーションの陥った世界経済の中で、民間企業は生き残ることすれ難しかっただけに、政府系企業の労働者の「甘えた状況」に嫉妬したのかもしれない。

当時にしても政府系企業の労働者の権利主張は決してやり過ぎなどではなかったと思う。労働者の権利を当然のごとく主張したに過ぎない。ただ、民間企業との格差、この責任の大部分は民間企業の側にあるのだが、納税者でもあるという意識が、自らの責任から逃避し、政府系企業を批判することで溜飲を下げたということなのだろう。

結果、財政赤字を縮小させるためには、政府系企業を民営化しなければならないという中曽根行革が国民の支持を受け、実行されることになる。その過程で、労働者の権利はないがしろにされ、それまですでに獲得していた労働者の権利は、なし崩し的に剥奪されていった。

一方的に労働者の権利は剥奪されたにもかかわらず、その現象を説明する際には必ず、「民間の感覚」という不明瞭でハッキリしないものの、弱い立場に押し込められている多くの国民には溜飲を下げることになる言説が使用された。実際に進行している労働者の権利の縮小ということには気付かせないように、徐々にしかも着実に実施されてきたのである。
またそうしたことを正当化するために、「日本の危機」といって国民の不安をあおるような言説を用いたり、「Japan as NO.1」といった国民の自尊心をくすぐる言説が流布された。ともに日本人のナショナリズム感情に訴えるものである。諸外国の場合は、キリスト教の価値観やイスラムの価値観などといった宗教的なものが利用されることが多かったが、日本では政教分離の原則があるため、日本ナショナリズムの再興が利用されたのである。

しかしその本質は、「小さな政府」を目指す基本方針を維持しながらも、一部エリート層の既得権益は十分に保護し続ける(保守主義)性格を強く持つものであった。古典的な自由主義は、国家の経済活動からの解放、つまり自由を求めるものであり、政府の活動自体が小さくあるべきだとの考え方をしていたが、新自由主義は、政府の活動のうち、福祉政策、つまり社会的弱者を救済する部分は縮小し、エリート層の権益はこれまで以上に保護し続けるという考え方である。

これが今の凄惨な現状をもたらした。労働者の権利は剥奪され、雇用すら維持できない状況を招いた。本来生産されるべき、政府の非効率的な部分は既得権益を持つエリートや官僚たちがいる限り、いかに非効率的であろうとも維持された。天下りを受け入れているさまざまな公益法人こそ、その証左である。

小泉政権で訴えた「構造改革」は、政府による規制を緩和することで民間活力が増すという前提であったが、その前提そのものに疑問もあるし、さらにはその運営自体がデタラメであった。郵政民営化におけるドタバタ劇はそれを象徴している。

結局、これまでの日本政治は、戦後、連合国によって占領されていたときに形成された民主的な財産を食いつぶし、元に戻りつつあるのかもしれない。悲しいことだ。

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