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2009年6月

2009年6月29日 (月)

学力のない大学生

以前、このブログでも紹介した事例を繰り返しになるが再度、記しておきたい。

1/2+1/3= という計算のことだ。数学というレベルではなく、小学校4~5年生レベルの算数だ。方法はいたって簡単。分母を同じくしない限り、分数は加減の計算ができないので(本当のところは違うのだが、小学校ではこのように教えている)、分母を同じくすることをまずする。つまり、通分という奴だ。1/2+1/3=3/6+2/6= として、答えは5/6 とする。

このブログを読まれている大部分の人には当然の計算式。でも、実際にこの問題を、三流大学もしくは底辺大学と呼ばれている学生にさせようとすると、ほぼすべての学生は、この計算の答えを、2/5 としてしまう。分数の計算にしても、通分するという基本的な計算原則を覚えていないので、単に分子と分母の数を足そうとしてしまうからだ。

なぜ、このようなことになるのか。この問題について触れる前に、次の問題を考えてみる。1/2÷1/3= の計算だ。算数が得意の人はすぐに、1/2÷1/3=1/2×3/1= として、答えを3/2 とだしてしまうことだろう。ここで、算数が得意でない人は、悔し紛れに、「1/2を1/3でどうやって割ることが出来るんだ」という人もいるようだ。分数の割り算は、逆数の掛け算にするというルールを覚えていないための悔し紛れでもある。

でも数学というのは、色々なルールだけで成り立つようなものなのだろうか。そうではない。1/2÷1/3という計算は、1/2の中に1/3はいくつあるのか? という問いへの回答だということが理解されておかなければならないのだ。

しかし小学校や中学校、高校で、こうした数学の基本的な問いにどれだけの教諭が理解しているか、不明である。多くの教諭は、単に、分数の割り算は逆数の掛け算として教え込もうとする。単にルールを教え込まされるだけの授業では面白くも何もないことだけは確かだ。

歴史の授業でも、645年に何が起こったのか、だけを教えて、その事件の歴史的な意味を教えなければ、単なる記憶の強化になってしまう。645年に起こった皇族によるクーデタという歴史物語があってはじめて、文化の改新という出来事に意味が与えられるのだ。

こういうコメントをすれば、学校の教員の質を高めるために講習会を増やしていかなければならない、などという結論に結び付けようとする輩が多いが、そういう輩こそ現状に対する認識が足りないのだ。すでに教員が受けなければならない講習会は数限りなくあり、こなすだけで大変な上、教育委員会に提出しなければならない書類の量は、ここ数年で数倍に増加している。

だからこそ、教員が逆に勉強できる環境をつくる必要があるのだ。講習を受けさせるのではなく、自らが学習する余裕を与えなければならないのだ。加えて、大学を卒業するだけが目標のようにしている現在の教育システムを根本から変革する必要もある。大学を出ることで、豊かな生活が保証される社会ではもはやないし、大学に進学する以外の選択肢も数多くあってもよいのだ。いかなる努力であろうとも、努力した者が報われる社会が正しい社会だと、筆者は信じている。怠けズルをした者が報われるような社会は碌でもないのだ。

今の日本は、そうした意味でおかしい。1/2+1/3=5/6 と計算できない大学生は大学に進学する必要はないのだ。他の途を探せば、もっと向いたものがあるはずだ。そして、その選択肢は尊重されなければならないのだ。今の社会では、大学に進学しないものは、社会の脱落者のごとく扱われてしまう。だが事実はそうではない。多様性を認める社会にすべきだ。

学生にしても、1/2+1/3=の計算が出来ない学生が、理系学部の授業を理解できるはずもないのだ。またそれだけの理解力しかない学生は、文系学部にしても、抽象的な解説を理解できるはずもないのだ。教える側も、教わる側も双方が不幸なことだ。

学生の学力不足は深刻だ。上記の計算問題はその実例の一つに過ぎない。漢字のかけない学生、文章をかけない学生、挨拶の出来ない学生、会話の出来ない学生など。小学生ではない、大学生の中に、そうした学生が数多くなっている。底辺大学、三流大学といわれている大学では、その学生の割合は少なくとも半分は超えているのが実態だ。

でも、学生が授業料を納め続ける限り、大学経営者はそうした学生を大切にするに違いない。教員に一生懸命に教育することを無理やりに放棄させてまでも・・・・・。「お客様は神様です」といった歌手がいたが、その言葉は本来の精神から離れ、独り歩きし、金の亡者と化した大学経営者の都合のよいように使われ始めている。

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政治を混乱させる見せ掛けのヒーロー

約1年前、国民に不人気だった当事の福田首相が辞意を表明し、自民党の総裁選が実施された。当時、「秋葉原のオタクの皆さ~ん」などと演説し、人気を博していた人物が、そのときの総裁選挙に勝利した。現在の麻生太郎首相だ。

麻生首相の政治的理念は何なのだろうか。この経済情勢のためか、経済の安定と言うことを繰り返し主張しているように思えるが、それは首相の職についた人物であれば必ずしなければならない業務の人とでもある。決して、「経済の安定」は政治理念などではない。民主党の小沢前代表と鳩山現代表との党首討論の中からも、麻生首相の理想とする政治、政治理念は伺い知ることは出来なかった。

小泉元首相の政治理念には異論もあり、根本的に日本を悪くした人物の一人であると評価しているのだが、小泉元首相には分かり易い政治理念があった。「構造改革」とか「規制緩和」という言説で示されているとおり、新自由主義のイデオロギーを中核とする自由な政治の実現である。かつてはアダム・スミスなどが分析した国家が市場(民間のすべての活動の場)に介入せず、自由に活動させることによって、自動的な調節機能に期待を寄せる理念である。

小泉元首相の理念の問題点は、色々な論者が指摘しているとおりであり、筆者も小泉元首相の政策の結果、国民に格差が拡大し、社会的な問題を深刻化させたと考えている。そうした批判はあっても、小泉元首相には明確な政治理念があった。それも国家全体を対象とした具体的なものであった。

麻生首相にはそうしたものが全くない。したがって、国民からの指示は離れていくばかりだ。では今、メディアで取り上げられている東国原宮崎県知事の場合、どうだろうか。

東国原知事が「地方から国を変える」と主張するのは、県知事の立場上、当然のことであり、何も彼がはじめて言い始めたことでもない。地方分権が叫ばれ始めていこう、常にこのフレーズが用いられている。ではそれ以外に、何があるのか。・・・・。何があるのか、・・・・・・? 実は何もない。

東国原知事が知事に就任して、何を達成したというのか。かつてタレントであったことを生かし、メディアに登場し、面白おかしく宮崎を全国に宣伝した功績は評価されるべきだろう。他の知事も見習うべき点が多い。では、それ以外には何があるのか。高速道路の建設に関し、国に要望することはあっても、宮崎県が独自に何かを構想するようなことはなかった。提案しようともしていなかった。国の政策を単に批判するだけで、県で出来ることから始めようとする試みは、東国原知事の指導で実施されたのではなく、それまでの宮崎県で実施されていたことを継続しただけだ。

高知県などで実践された低規格道路の建設という低コストの道路の建設を行うという試みは、これまで宮崎県で実践されたという報道を聞いたことがない。HPをチェックしても、そのようなものは、筆者の調査ではヒットしなかった。

東国原知事の能力は、決して低くなく、国民の関心を高めているという点から見れば、評価すべき政治家の一人なのだろう。ただ、国政の責任者、もしくは国政を指導するポストに就ける見識と知識を持っているかどうか、と問われれば疑問符をつけざるを得ない。現在は、県知事であり、県と国政とでは対象とする利害が全く異なるからだ。

現時点において、東国原知事の行動は、国政をつまりは政治を混乱させる擬似ヒーローに過ぎないと考えている。危機の時代、ややもすれば表面的にかっこいいことをいう人に国民の支持は集まりがちだが、真剣に考えられれば、その余りの軽さに批判が向けられることになるだろう。

麻生首相の例など、その典型的な例だ。オタクのヒーローと自称した人物は、その能力はオタクの範囲の中だけだったことを露呈させてしまっている。「官僚を使いこなすことが肝要」といいながら、その実、「官僚に使いこなされてしなっている」。公務員改革は完全に骨抜きにされ、さらに特別補正予算として15兆円もの官僚延命策を講じる羽目になってしまっているのだ。

民主党の鳩山代表にヒーローとしての資質があるのか、と問われれば「分からない」としか答えられない。でも、ヒーローでなくとも、少なくとも官僚などの一部の利害関係者のみの利得を優先する製作だけはしないようになるだろう。ヒーローや哲人などを求めることは、現在はむりだろう。とすれば、ヒーローや哲人でなくとも、少なくとも目は国民に向けてくれる、しかも一部地域だけでなく、全体を見て、国家としての利益を考える人物を選択したいものだ。そうした政治家が少ない、という批判は的を得ているのだが、同時に、なぜ、少ないのかも考えなければならない。政治家がアホだということは、それだけ国民がアホだからでもある。政治化は国民の鏡でもあるのだ。

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2009年6月26日 (金)

自民党の硬直化

自民党を中心とする政治が硬直したのは、何も麻生政権になってからではない。硬直化した状況が生じていたのは古くからであるが、それが顕在化し、問題として認識せざるを得なくなったのは2005年の衆議院選挙以後のことだ。

2005年の衆議院選挙では、自民党が大勝した。衆議院の3分の2以上の議席を与えられ、その意思と説明責任を果たす意思と能力を持てば、憲法すら会見できる状況になった。ここに自民党政治の終焉が開始した。

当時、改憲論者として頭角を現し、タカ派の論客、新保守主義の若き指導者などと祭り上げられ、小泉首相に重用された安倍晋三氏は、1年後内閣総理大臣のいすを禅譲されもした。にもかかわらず、改憲論議は、首相になるとともに封印し、『美しい国へ』と題する国家論を披露するも、なんら具体的な政策を実行することが出来ず、約1年で政権を投げ出した。ここに自民党政治の限界が露呈している。

衆議院で議席の3分の2以上を占めていた自民党は、続く福田政権移行、重要問題で野党の反対や抵抗にあうと、政治的な交渉を放棄し、衆議院での再議決を強行するようになった。麻生政権になってからは、再議決を強行するばかりで、政策を実行知るために必要な野党との政治交渉や政治的駆け引きすらおかなわないようになっていった。現在、「政治的駆け引き」といわれているものは、決して国民のための駆け引きをしているのではなく、如何に自党に有利な政策を議決するかだけに依拠したものだ。

だからこそ、官僚たちに付け入る隙を与え続けることになっている。大型補正予算といわれるものの大半は、これは決して半分以下ではなく、大半は官僚たちの利権に関わるものばかりだ。15兆円ともいわれる補正予算の中で、景気刺激を目的とした政策、国民の生活を安心させるための政策にどれだけの予算が向けられているのだろうか。寛大に考えて半分と見る人は、あまりにお気楽過ぎる。国民に向けられた額は、10%あるかどうか。大半は、それまでに注視が決定されたかされそうになっていたものを復活させたり、要らぬは小物の建設であったり、不必要な天下り機関の設置向けだったりする。

最後の味噌は、ある県の知事のあまりに傲慢と思える要求を無碍にすら出来ない自民党の人気のなさの証明であった。ここまで落ちぶれ、硬直化した政党に政治を任せることが出来るのか。自民党の政治家は、民主党に任せることが出来るのか、と言うが、それに対する答えは、「あんたには言われたくない」であろう。民主党にも問題はあるが、少なくとも現在の自民党よりはマシだ。(こんな低次元での争いにも呆れるが・・・)

ただ最近、国民の監視しようとする意識が強くなっている。誰かがやってくれると言う考えは、昨年のリーマンショック以降、次第に薄れてきているようだ。あれだけ辛い目に遭ったのだから当たり前と言えば当たり前か! ここに、今後の日本への期待を寄せたい。

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政界が混乱し崩壊する日

政治家には何が求められているのだろうか?

最近の政治論議の中で、「政治家が決めたことを官僚が着実に遂行していくことが重要」などということが言われる。政治家が基本的な方針を定め、それを行政機構が守り、その方針に沿って実施していかなければならない、ということを示したものだ。

この考えに異を唱える人は少ない。いわゆる総論賛成というものだ。現在の憲法の規定からも反対できないだろう。国会は国権の最高機関と位置づけられ、そのメンバー、つまり国会議員は国家の基本的方針を審議し決定する人たちと考えられるからだ。

ではどういう人が国会議員でなければならないのだろうか。国会議員は国政に関わる人たちなので、国家全体に目配りをすることの出来る人でなければならない。例えば、地方の県の県知事は、その県の権益を考え主張してもそれは当然のこととして考えられる。しかし国会議員の立場では、主張によって他の県の不利益をもたらすことになるとすれば、それぞれの損益とを比較し、判断した上での発言が求められる。これはなかなか出来ることではない。現役の国会議員の中にも、利益誘導型の人が多く、一部地域の利益のみを代弁するしかない国会議員も少なくはないというのが現実だ。ただ、原則としては国家全体の利益を考えることの出来ることが肝要である。

今、自民党の中にはそうしたことが考えられる人が極度に少なくなっているようだ。目先の占拠での敗北をどれだけ少なくするかだけに目を取られ、国政を担っているという自負もプライドも失くしてしまっている人が闊歩しているだけのようだ。

東国原宮崎県知事は、その就任以降、メディアの話題に取り上げられるようなことを続け、それなりに宮崎県の物産販売などに関しては大きな貢献をしてこられたのだろう。宮崎県知事としては十二分な活躍である。しかし、国政を担う立場となれば、評価基準は異なってくる。

知事のこれまでの業績として何があるのか? 宮崎県での高速道路網の不備を訴え、高速道路網の整備を陳情しているが、そのことは日本全体としてみた場合、本当に利益のあることなのか。一地域の必要性だというのであれば、なぜ、県が独自に整備しようとはしなかったのだろうか。またその方策を探ろうとはしなかったのだろうか。

メッセージの発信能力という観点から見れば、大阪の橋下知事と同様に非常に優秀である。しかし知事は政策実行の責任者でもある。就任以降にしてきた政策の実績は何か、まずそれを示すことが今、求められているのだろう。

タレントであった人物が政治家になることがおかしいなどというつもりは毛頭ない。むしろ、メッセージの発信能力の高さから人格を伴う人であれば、望ましいとさえ思っている。しかし、今回の東国原知事の言動は、彼のおごり高ぶった部分と、お笑い芸人としてのものを茶化してしまう部分とが混合して表出しているようで、不愉快である。

政治家は、物事を茶化すのではなく、真正面に見据えて、その問題の処理に取り組むことが求められるのだ。だからこそ、国政の基本方針の決定を委ねられているのだ。茶化してごまかすことは、真の政治家には求められていない。

まあそうした人物を、選挙のためのお飾りにしようとした正当にも当然、責任がる。しかもそれが責任ある政権与党であるということに、憤りを通り越した、悲哀すら感じた。よくぞ、ここまで、落ちぶれたものだ。ここままでは、日本政治は崩壊してしまう。政治が崩壊した国家ほど、哀れで悲しいものはない。ソマリア、ジンバブエ、その実例は今でもある。そうした国家の国民の生活は悲惨だ。そうなって欲しくはないのだが・・・・・・・。

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2009年6月25日 (木)

タレント政治家の限界

宮崎県の東国原知事に、近々に実施される衆議院選挙への出馬を要請するために、自民党の古賀選対委員長が会いに行った。その結果、①次期総裁選の候補者とすること、②全国知事会が作成した地方分権の基本方針を自民党のマニフェストにいれること、の二つの条件を出されてしまった。この訪問が、自民党のみならず、日本政治のもつ根幹的な問題を表面化してしまったように思う。

まず自民党について検討すれば、自民党という政党の制度的疲労が解党しない限り直らないところにまで来ていることを露呈させてしまった。国民的な人気を博する知事といえども、あくまでも地方自治体の首長の一人に過ぎない。現在の政治体制・政治システムの中では、国政レベルの政策決定には直接関与しない、関与できないポストにいる人物なのだ。そうした人物に、政権与党の総裁選挙時の候補とすることが、国政進出の条件に出されるということは、自民党という政党の資質とレベルが反映しているとしか思えない。ここまで落ちぶれてしまったのか、という驚きを禁じえないのだ。

自民党内部からは、「あほらしい」とか「古賀委員長の辞任に値する」などという意見が出ているようだが、古賀委員長は自民党の要職である選挙対策委員会の責任者である。次期総選挙を実質的に取り仕切る立場にある者の言動なのである。その責任者である焦がしの発言と言動の持つ意味、あるいは表している意味合いは無視してはならないものなのだ。組織防衛という観点から、「あほらしい」ということも「辞任しろ」という意見が出てくることも当然ではあるが、それは瑣末なことである。自民党という組織に蔓延した膿もここまで拡大して浸透してしまっていた、と驚いた。

次に日本政治のもつ問題について。小泉政権成立以降、「国民の意思」というものが政治の実践の場に大きく影響し始めた。支持率という数値が、政権の政策実行力を高めたり弱めたりするようになっている。これはこれで民主主義の表現形態の一つと考えられるので結構なことであるのだが、「国民の意思」そのものが実のところ、非常に表面的なもの、換言すればマスコミ紙(誌)上に躍る刺激的な言説に左右され過ぎてしまっているという問題である。

メディアも「第三の権力」として、時の権力に抗する報道をすることもあれば、経営的配慮からとても中立的だとは思えない記事を書いていたりすることがある。にもかかわらず、国民の多くは、メディアに出てくる表面的な言説に刺激を受け過ぎてしまっているきらいがある。

東国原知事の評価にしても、宮崎県の知事としては、宮崎県の商品を売り込んだりするなどのパフォーマンスは優れている。ただ、知事に期待される宮崎県庁の行政的な責任者としての活動に関しては、報道も余りされていないこともあり、未知数である。行政機構の首長に期待される清廉潔白性に関しては、いろいろな意見があるということは知っているが、筆者はマナイスの評価しか出来ずにいる。人間のよいところを評価しよう、という考えがあってもよいと思うので、そうした立場に立てば、東国原知事の活動は肯定的に評価してもよいと思うが、本来、行政機構の首長に期待される資質の面では、全体的には肯定できないのではないか、という評価をせざるをえないのだ。

その理由の一つとしては、道路建設に関するものだ。確かに宮崎県に高速道路網が十分でないことは理解できる。また採算性だけでなく、地方にとって必要な建設理由があるということも理解できる。とすれば、国の予算に頼るのではなく、県独自の予算を、県独自の方法を使って建設する努力をすればよいのではないか。公的機関による道路建設は、その杜撰な予算管理のために、高価になりがちである。競争入札をするにしても、一定の条件などを付してしまえば、実質的に特定の業者しか入札できないということになっている。割高な建設費を、「節約しよう」という意識の元で検討しなおせば、方策はあるはずである。にもかかわらず、東国原ちじには是非期待していたことなのに、そうとはせず、従来の建設業界の慣例に則った道路建設の実施を「国にお願いする」ことばかりを繰り返している。これでは評価できないとしても致し方ないのではないか。

メディアは目立つ行為を報道する。目立たない行為は報道しないのだ。ニュースとしての価値がないと考えられるのだ。しかし実際はそうした地道な活動の積み上げによって、日本の政治は運営されている。極論すれば、メディアが報道しない部分にこそ、重要な活動があるのだ。

メディアが政治を報道することで国民が関心を高めることはよいことだ。ただ、同時にメディアが伝える政治はあくまでも政治の一側面に過ぎないということを理解したうえで、全体的な評価をするべきなのだろう。

タレント政治家は、大阪府知事も同様に、目立つ活動をする。だから余計にメディアに報道してもらえる。また彼らはそのことにレゼン・エートルをもつため、あえてそのようにしている部分もある。だから余計、人気を博すことになる。 ここまで書けば、書きすぎなのかもしれないが、そうした側面を持つことを理解しない人の中には、「彼らこそが真の政治家」などという惚けたことを真剣に語る可哀想な人になってしまう。

メディアが報道することはないが、それでも地道にコツコツと働いている人がいることだけは失念しないようにしたい。

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2009年6月22日 (月)

イランでの騒擾

イランで大統領選挙後、混乱が続いている。死者すら出ているとの報道がある。イラン人の友人も多いので、心配だ。

イスラム教についてはよく知らない。教科書に書かれていることを教室で教わった程度である。あとは興味の赴くままに読んだ本で仕入れた知識くらい。その僅かな知識と理解で書くのは勇気がいるが、イスラム教の教えが、今回イランで引き起こしているような暴力的なものではない、と思う。新聞などでは宗教指導者が先導してでもいるかのような書き方がされているが、本当? そこに書かれている宗教指導者って、非情に世俗的な人物であり、イスラム教の教えに忠実な人なのだろうか、と常に思う。

筆者が知っているイスラム教徒は非常に熱心な信者からいい加減な信者まで幅が広いが、すべての人に共通していることは、他人に対して非常に親切であるということだ。だから、イスラム教には、他人に親切にしなさいという教えがあるものだと思っている。

イランで起こっている出来事は、宗教的な要因などではなく、政治的な利得計算の中で引き起こされているものだと思えてならない。現在の体制で利益を得ている人が、あるいは利益を得ていると思っている人が、それを失わないように一生懸命に体制を維持しようとしているのだろう。でも、それにも増して、今の体制に不満を持つ人も多くなってきているに違いない。なんとも人間臭い現象のような期がする。

マスコミでの報道は、イランのことを野蛮な変な宗教の国家であると報じる傾向が見られるが、真実は多分、日本と同じように人間臭いものなのだろう。既得権益を守り抜こうとする欲に刈られた連中が、それを脅かす不届き者を成敗しているということのように思える。

ここでハッと気がついた。それって、日本にもあるじゃないか! 既得権益を守り抜くために、敵側に回った有力政治家の揚げ足を取って、野党の党首から引き釣りおろした、●察。一旦、廃止を念頭に建設が中断していた道路の建設を復活させた○土×通省。管轄する公益法人(漢×検△協会など)が天下りを引き受けないために見せしめに血祭りにあげた○部科□省。それ以外に・・・・・。程度の差こそあれ、本質は日本と何が変わるというのだろう。

イランの出来事の報道をみながら、友人のことを心配しつつも、なんとなく日本の憂えた状況を想像してしまった。イランでの出来事は、実のところ、今、表には出ていない部分で裏に隠され続けている日本の姿なのでは・・・・。今に、年金や雇用などだけでなく、偉そうに説教をたれる団塊世代に対する不満などが、若者を中心に別の形での反乱となるのではないかと、杞憂してしまう。

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2009年6月15日 (月)

「敵をつくらない」人格って?

厚生労働省の現役局長である村木厚子雇用均等・児童家庭局長が逮捕された。容疑は、障害者団体を自称していた「凛(りん)の会」(解散)が郵便割引制度を適用できるようにするために、厚生労働省の偽の公文書が作成したというものだ。

この事件、国会議員の関与も噂されているようで、もっと根の深い闇の中の出来事のような気もする。ある意味、当時の本庁課長に、このような事件を引き起こす権限も、メリットも見出すことが難しいので、もっと別な関係者が容易に想定されるのだ。確かの本庁の課長といえば、政策決定には重要な役割を果たすポストである。実質的な政策決定を行っているといっても過言ではない。しかし違法な行為を進んでするメリットが、本庁課長レベルでは見出すことが難しいのも事実だ。もっとこの闇を明らかにする捜査が待たれる。

ところで、今回逮捕された村木局長の人柄について記事が出ていた。読売新聞のその記事に寄れば、村木厚子局長は、「『誰からも好かれ、敵を作らないタイプ』『無欲で信念を持って行動する人』などと、省内では人柄に関する評判も高い」と記されている。

この記事を読めば、なるほど性格温厚で優秀な官僚であるとの印象を受け、なぜ、このような優秀な官僚がこのような事件をおこなしたのか、との感想を持つ人も多いのだろう。しかしこの記事の裏に隠されていることを読み解く必要がある。

官僚機構というところで、誰からも好かれ敵を作らないということが意味することは、上司には一切楯突かず(イエス・マンである)、人が嫌がるようなことは一切せず(不作為を好む)、自分の意見を押し通さない(政策立案に消極的である)、ということを意味する。また無欲で信念を持って行動する人というのは、自分だけの利益を考えるのではなく所属する組織全体の利益を考えて行動する(省益重視の行動をとる)、一旦組織として決定したことはいかなる困難があろうとも実施する(省益堅持の行動をとる)ということを意味する。

表面的な言説だけだといい人という印象を受けてしまうが、官僚機構という特殊な組織に所属する人物であるということを考慮に入れれば、強かなかつ謀略に長けた人物であることが浮かび上がってくる可能性もあるのだ。

個人的な体験で恐縮であるが、ある組織で長年、「敵をつくらない」という評価を受けてきた人物のことを指摘しておく。この人物は、確かに組織の責任者を務めていた時も大きな問題を起こさなかったし、組織内のトラブルもほとんど見られなかった。しかしその人物が退職すると直後から、さまざまなトラブルと問題が噴出し始めた。当該組織の中に蔓延した不満や構造的な問題の解決を一切図ろうとしてこなかったからだ。「まあまあ」で済ませ、問題の解決を先延ばしにしたため、問題は深刻化し、その人物がいなくなった時点ではすでに可決が不可能なまでに問題は深刻化しており、収拾することがほぼ不可能にまでなってしまっていた。組織としての機能を全くなさず、残された者たちがその後始末に要した時間や労力は甚大なものであった。

「敵をつくらない」ということは、他人と対立をしないということに過ぎず、それだけでは決してプラスの評価にしてはならない。問題解決を放棄し、より問題を深刻化している場合が多いからである。そうした人物が評価される社会こそおかしいのだ。

今回の郵政不正配送に関わる事件の中で、村木局長の果たした役割は決して少なくはないと推測される。ただ、彼女が一人でこの事件を引き起こしたとは到底思えない。なにせ、「敵をつくらない」性格なので、不正事件を主導するようなことをするとは思えないからだ。誰かから、特に上司から指示された可能性が非常に高いと思われる。

善人だからといって行った犯罪行為が許されるものではない。適切かつ相応の処罰を受ける必要もある。ただ、表面化されただけではなく、実際に関わったすべての人物を明らかにする義務が、検察だけでなく、厚生労働省にもあるはずだ。

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厚生労働省の汚職事件

厚生労働省の現役の局長がダイレクトメールの不正配送事件に関わって逮捕された。厚生労働省の一係長というノンキャリアに罪をすべて着せて、罪を逃れようとしていた官僚の一人が逮捕されたということだ。

当たり前のことといえばそれまでなのだが、現役の局長を逮捕するという自体は異例である。それはこの事件の抱える「闇」があまりに深いからなのかもしれない。

国会議員からの口利きがあったと報道では伝えられている。報道で知る限りでは、国会議員からの働きかけがあり、当時の部長→課長→係長という順序で、違法な証明書の発行が行われるように仕向けられたとのことだ。

ダイレクトメールの郵送料金を不法に安くあげようとした事件なのだが、それに国会議員が関わっているというのが事実であるとすれば、この事件、単なる不正手続き事件にとどまるのではなく、汚職もしくは収賄事件に発展するのだろう。

とにもかくにも事実を明らかにすることだ。どの国会議員がこの事件に関わっているのか、検察に事情聴取されている元部長だけがこの事件に関わっていたのか、国会議員が関わっているとすれば、当時の他の部長や局長、あるいは事務次官なども関わるような組織的な犯罪ではなかったのか。

今、表面化しているだけでは些細な事件なのかもしれないが、仮に厚生労働省挙げての組織的な犯罪であったとしても、事実を明らかにすべきだろう。この時期に、この事件が扱われるタイミングに疑惑がないと言い切れないと思われるが、それはそれとして後日明らかにすればよい。まずはこの事件の真相を明らかにすべきだろう。

どれだけ日本の官僚組織というものが組織的かつ構造的な疲弊を強めているかを白日の下にさらす事件となるかもしれない。

まあ悲惨なのは厚生労働省だけではないのだが・・・・。

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2009年6月12日 (金)

郵政社長問題の猿芝居

日本郵政の社長問題の猿芝居を、どの人がどのように利益を持つのか、考えてみた。

社長継続問題は、鳩山邦夫総務相と西川善文社長との対立が基本にあるのだろうが、それに関わる行為主体は多い。

まず鳩山邦夫総務相。「かんぽの宿」売却問題に絡み、日本郵政を厳しく批判し、国民的支持を得た。確かに、かんぽの宿売却問題はあまりに不透明な部分が多く、一部の利害関係者に多大な利得を与える一方で、国民の財産を不当に安く売却するものであっただけに鳩山総務相の判断には支持が集まったのだろう。

ただ筆者が思うことは、かんぽの宿売却問題は単に西川社長の責任に帰すべき問題なのか、という重大な疑惑を抱いている。売却交渉を進めてきたのは日本郵政の幹部職員であり、西川社長ではない。官僚の常として都合の悪い情報は開示しないことが行われたであろうと容易に推測できるので、西川社長の責任だけを追及することには、別の政治的思惑を感じざるを得ない。

鳩山総務相の発言も、一部を見れば確かに「正義」を主張しているかのように見るのだが、小泉構造改革に対する批判と非難がその根底になかったかといえば、嘘であろう。信念を貫くフリをしながらも、その実、政治的駆け引きが行われていると見るほうが正しいのではないか。兄である鳩山由紀夫民主党代表との兄弟関係も、この政治駆け引きの強力な武器になっているので、総選挙後の政界再編性に対する布石だとも考えられるのである。どちらにしろ鳩山邦夫総務相には、損なことは何もないようになっている。

次に西川社長である。民間から登用された西川社長は小泉構造改革の象徴に祭り上げられた観が強い。同時に、ご本人の権力よくも強いということは、西川社長が日本郵政の新社長になる頃、マスコミ特に週刊誌などで大々的に報じられていたとおりである。

西川社長は、かんぽの宿売却問題や、ダイレクトメールの不正発想に直接関わることはなかっただろうと推測される。社長職がそのような事例に直接関わることは、あの規模の企業体であれば通常ありえないからだ。ただ、最終的な決済には関与している。とすれば、問題が発覚した後、どのような対処をしたかが問われることになる。ダイレクトメール問題はまだ捜査中の事例でもあるので、最終的な判断は出来ないだろうが、かんぽの宿売却問題とその後の業務改善計画などから、社長としての判断にかなり甘いところがあることだけは事実だろう。官僚の情報隠しの結果なのか、または官僚の甘言に乗せられてのことなのか、はたまた殿様気分で何も処理しようとしなかったからなのかは不明だが、問題に対して真摯にかつ真剣に取り組んだところはいっぺんも見られない。だからこそ、鳩山総務相の政治的駆け引きに使用されてしまっているともいえるのだ。

西川社長が残ることに利益を見出すものは、小泉構造改革を推進するといい続けている政治家と日本郵政の元郵政官僚たちであろう。西川社長であれば、これまでどおり甘い蜜を吸い続けることができると踏んでいるからだ。ただ政治家と異なるのは、西川社長でなくてもよいのだ。西川社長が辞任もしくは罷免されても、次の社長は郵政官僚の中から出せば済むことであり、本来それが望ましいと考えているからだ。どちらに転んでも損はしない。麻生政権であり続けるうちは、行政改革、つまり官僚機構に手が加えられることはないのだから、今のうちに甘い蜜を吸いそして蓄えておく必要があると思っているのだろう。

中川元幹事長をはじめとする郵政民営化を推し進めた政治家たちは、構造改革を推し進め国民の利益を拡大させようとしているのではない。このお題目を言い続けることで、自らの政治的影響力を保持し、現麻生政権に対する圧力を加え、冷遇されている自らの立場を改善しようとしているに過ぎない。

要は、今回の日本郵政社長問題は、昔の政治家でセンスも悪い加藤元自民党幹事長が言うように「喧嘩両成敗」などで済む問題ではなく、日本政治が抱える深刻な膿が湧き出ている現象なのである。かつては機能したと思われる官僚機構も、長年の制度疲労で機能不全に陥っているおり、膿が湧き出ているのである。

この膿を解消するためには、根本的な改革が必要なのだろう。そしてその改革を実施した結果、どのような社会を創設しようとしているのかを提示できる人物が今こそ求められているのである。ただ残念なことに、そうした人物は今のところ見当たらない。

<追記>
先ほど、鳩山総務相の更迭が決定されたとの報道があった。鳩山大臣も大臣だが、かんぽの宿やダイレクトメールなどの問題になんら対策を打てない人物の社長継続が決まった。これもな~~~。ヤレヤレ。チョッとだけではあったが、麻生首相の指導力の発揮に期待していた自分に、「甘いぞ」と思ってしまった。

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2009年6月11日 (木)

嘘つきは「警察官」の始まり

国家の中で法秩序の維持に機能すべき組織である警察・検察が、その信用を失ってしまった場合、どのようになるだろうか。途上国にいくとその実例が目に付くので、容易に想像がつく。

警察・検察に対する信用が失墜してしまった国家では、社会における強者がのさばる社会となり、社会を構成する多くの人々は、既存の秩序に適応するように努めながらも、それを信用せず、安心した社会とは程遠い、不安と不信が渦巻き、いわゆる「闇の世界」がのさばる社会と化してしまうのである。そうした社会に、暮らしたいと思うような人はいない。誰もが社会に貢献しようなどとは思わず、極度に利己的な行動をとり、即物的な欲望が支配する社会になってしまうのだ。

現在、日本国家はあるいは日本社会は、そこまでの悲惨な状況に置かれているわけではない。ただそうした恐怖や脅威が現実化する可能性が非常に高まっていることは事実だ。警察に対する不信・不満は、これまでにないほどに高まり、あたかも戦前の特高警察を思わせるような状況を生み出しつつある。

足利事件の捜査をした警察官、富山で起こった痴漢冤罪事件に関わった警察官、志布志事件を引き起こした警察官、などなど。すでに裁判所の判断が下された明確な冤罪事件を引き起こした警察官に対する処分・処罰は、あまりに不十分であり、警察官であるのであれば、何をしても許されると思っているのかという怒りを生み出すまでになっている。

さらに、最近では小沢一郎民主党代表代行の公設秘書が逮捕された事件、元大阪高検の公安部長であった三井環氏に対する事件(現在、収監中)、田中元検事に対する事件など、警察・検察の捜査に対する疑惑が急速に高まっている。検察もそれに気付いているのだろうが、どうもそれを修正しようとする意思はないようだ。

仲間を守ることは、仲間内の中では正義なのかもしれないが、社会全体で見ればそれは社会秩序の基礎を崩壊させてしまう不正義なのだ。そこにはどこにも正義はない。正義が守られなくなり、秩序が崩壊してしまうとき、そこにはカオスがあるだけだ。そうした状態に陥らないためにも、早急に是正していく努力をしていかなければならないのだが・・・・、その方法が見出せない。

今、徐々に明確になりつつある悲しい現実は、「嘘つきは警察官」というものだ。

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足利事件から思うこと

どれだけ人間が英知を傾けようと冤罪がなくなることはない。綺麗ごとのように聞こえる人も多いだろうが、事実だ。重要なことは、①出来る限り冤罪が怒らないような制度を改善していくことと、仮に冤罪が起こってしまった場合、②冤罪被害者の名誉回復と損害賠償を十分に行うようにすることである。

冤罪被害者の名誉回復と損害賠償に関しては、そんなことより冤罪被害事態をなくすことが重要だという人から見れば、二の次の議論になるのかもしれないが、実際に冤罪被害に会った人たちの人生は大きく狂わされており、それを元に戻す方策を本人だけでなく、社会が制度として支援する施策を採るようにするべきである。免田事件の冤罪被害者の免田さんが年金支給の申請をしようとしたところ、「掛け金を支払っていないから無理だ」と答えた社会保険庁職員の対応などは、冤罪被害者の名誉回復とともにその損害賠償自体も不十分であることを露呈している。

国家権力の行使の結果として、年金の掛け金を支払うことの出来なかった冤罪被害者に、掛け金を支払っていないから年金を支給出来ないという制度に欠陥がないはずがない。その後の人生が少なくとも、憲法で保障される文化的に最低限の生活、いやそれ以上の生活を保障するようでなければならないのだ。

さらに重要なことは、冤罪事件が発生しないようにすることだ。足利事件で明らかになったことは、捜査に当たった警察官による権限や職務を逸脱した違法な捜査による自白の強要である。いかに警察が否定しようとも、被害者自身がそのように証言しているのだから、警察が否定すればするほど、警察は「嘘つきだ」と思われるだけである。警察に対する信用が著しく低下することになるだけだ。

警察の留置所を拘置所代わりに使用する代用監獄制度に対しては、以前から批判が向けられ、改善要求がされているにもかかわらず、警察が捜査する上で都合がよいということで一切、改善されようともしていない。また、警察官の捜査の状況は一切、秘密とされている。すべて「捜査上の秘密」といういいわけの下で、情報が隠されてきているのだ。情報が隠された場合、権力を実際に行使する人物たちが法に反することを下としても、それを検証し、繰り返さないようにさせる手段はないのだ。警察官を含む公務員は、決して間違ったことはしないという「お上意識」の下で、現行制度が創設され運営されていることに大きな問題があるのだ。とすれば、そうした制度の改革をしなければならない。

同時に、法に反した行為をした警察官には十分な反省を促すとともに、法律に則って適切に処罰も加えることが必要だ。足利事件の捜査に当たった警察官(元職も含む)が、「今でも菅家(さん)が犯人だと信じる」と発言していることが報道されると、この警察官は全く冤罪の反省もしていないし、自らが違法な捜査を行ったという自覚もないのか、と憤りを隠せない。こうした警察官を処罰しなければ、国家における秩序維持に必要な警察という組織そのものに対する信頼が地に落ちてしまうことになるのだ。問題警察官と警察自体とは異なるものであり、自白を強要するためにドツいたり、髪の毛を引っ張ったりする行為は、違法行為なのだ。公務員の違法行為に対する条項ではなく、もはや傷害罪での処罰が適当だと確信している。

とはいえ、現在、そうした警察官(元職を含む)に対するネット上での、馬鹿げた騒動にも辟易する。ネット上で警察官の個人名を挙げたところで、何もならない。中には住所まで書き込む「バカ」がいるが、それでは足利事件を引き起こした「不良」警察官と何が異なるというのだろうか。法治国家では、法律の下で、平等に処罰されるのだし、また同時に不当に権利を侵害されない権利を持つのだ。この基本常識をわきまえない輩に、足利事件について語る資格などない。きちんと勉強しなおす、あるいは勉強するべきである。

いつも思うことだが、ホント、ネットオタクの自己正当化するあまりに単純な思考には呆れてしまう。まあ、今回の場合、足利事件を捜査した警察官も同じ穴の狢なので、似た者は集うということなのだろう。困ったものだ。ヤレヤレ!

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2009年6月10日 (水)

政治家と官僚への不信

政治家と官僚に関するさまざまな問題が噴出している。かんぽの宿売却問題に端を発する鳩山総務大臣と西川社長の対立など、その最たるものだろう。

かんぽの宿売却問題だけを見ると鳩山総務大臣の言い分のほうがもっともだと思える。国民の財産を不当に安い金額で、郵政民営化を推進した人物の経営する企業に売却するということは、大臣の言うとおり、国民の財産を掠め取ることであり、「正義」に反すると思う人も多い。なるほど、なるほど・・・・・・、でも、本当?

郵政が民営化された後、僻地での問題発生などあるものの、郵政事業は赤字体質から黒字体質へと次第に変化していることも事実だ。この変化を主導しているのは、社長を務める西川氏の手腕だと評価してもよいところもある。西川氏は、民間企業から小泉政権時に請われて郵政の社長に就任した人物でもある。こうした人物を更迭することは先の選挙時の公約でもある郵政民営化に反することであり、許せざることでもある、ということにも、なるほど、なるほど。でも、ちょっと待て!

西川社長を擁護する人は、郵政民営化以後のさまざまな問題を無視して、民営化の実績だけを強調しようとする。郵政民営化は、「小さな政府」を目指す小泉構造改革には必要な政策であったのだろうが、その影響は、社会に弱者を痛めつけることを惹起し、強化してしまっている。竹中氏などの論調はまさにその線に沿ったものであり、小泉構造改革を推進しようとする人々の中には、現在の日本社会の停滞をもたらした格差拡大、セーフティーネットの欠如などの問題に対する問題意識が欠如しているといわざるを得ない。

また一方、鳩山大臣に言い分にしても、一見すれば正当なもののように見えるものの、責任をすべて西川社長に求めるだけであり、事件そのものを引き起こした郵政の組織的問題の解決に結び付けようとする姿勢は全く見られない。単に、西川社長の更迭だけすれば、問題はすべて解決するかのような主張だ。麻生首相が国会討論の中でいみじくも語ったように「本心では構造改革に反対だった」ための意趣返しと捉えられても仕方ないような軽率な行動・発言だ。東大きっての秀才と謳われたあの頭脳が本当にもったいない。

今回いの問題発生を見て、改めて根本的な官僚組織の改造、つまり解体的改革を行わないといけない時期に来ているのだと痛感させられた。問題を発生させたのは、元官僚たちの浅はかな業務に起因するものなのだから。

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2009年6月 8日 (月)

官僚「統治」の危険性

朝日新聞のトップ記事(2009年6月8日付)はなかなかの衝撃を与えてくれた。経営再建中の農林中央金庫に新たに「理事長」職を創設し、そこに元農林水産省事務次官の小林芳雄氏(59)を天下らせようとすることが決定しかけているとの記事だ。

日本政治は、政官財の三極が癒着している構図をもつと言われている。このバランスが取れている場合には、問題が表面化されにくいのだが、バランスが崩れてしまうと問題が顕在化してしまうのだ。

小泉構造改革は、政官財の内、財の部分を肥大化させようとする性質を持っていた。「民間活力の利用」とか、「市場競争原理の導入」、「郵政民営化」などは、その本質として、経済界の利益の拡大を狙ったものである。かつてのような「資本家を利する」という表現は適切ではないが、経営者にとって経営しやすい環境整備を図ることで、政府の財政支出を減少させようとしたのである。だから、今のような労働者の権利がないがしろにされ、「弱肉強食」と評される不平等社会の形成されてきたのである。

最近、経済危機の影響からか、経済界を利するちからが弱体化し、これまで冷や飯を喰わされかけてきた「官」の力が増してきている。「政」は、自民党政治の構造的老朽化が進展してきている。「経」と「政」が弱体化したために、相対的に「官」の力が増してきたのだ。

小泉構造改革の「民営化」の掛け声の下で、権益や利権を失いつつあった「官」が今、その復権を目指してなりふり構わず策略を狙っている。その一例が、朝日新聞に記事にある再建途中の金融機関に対する天下りポストの設置である。

農林水産省の元事務次官であれば、当然、能力は高いし、人脈はある。そうでなければ、事務次官ポストなどに就けはしない。だが、そうした能力と、金融機関の理事長職に要求される金融・経済関連の知識と経験とは異なるものである。どうしても官僚出身者が必要であるというのであれば、財務省OBを呼んでくればよいのだ。財務省ではなく、農林水産省のOBであるという点が、問題なのであり、今の「官僚統治」の問題を典型的に示している。

ここに見られるものは、何よりも官僚たちの利権を守ることが重要なのであり、再建途中の金融機関が再建することよりも官僚の利権が優先していること、国民の税金が使われる政府系金融機関のポストはその所管官庁の私物と化していること、などである。決して国民のためになるとしてのものではない。

麻生政権は多分、この問題を無視するだろう。郵政の総裁問題に関しても明確な判断を示せない政権に、官僚に使いこなされている政権(官僚の傀儡政権?)が何かをすることなどできはしない。

元々、政官財の三極構造に国民利益の保護などという視点はないのだが、分け前が少なくなりつつある今、その傾向は極度に強まっている。これは政官財三極構造の終わりの初めなのか、それとも政官財の更なる強化に向かうものなのか。その分けれ道として、国民の監視の目ということがキーワードになるだろう。

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2009年6月 5日 (金)

足利事件への反省は?

1990年、保育園児が殺害された。1991年、逮捕され無期懲役が確定され収監されていた菅家さんに対する懲役刑の執行停止が決定され、昨日、菅家さんが釈放された。この事件、警察がでっち上げた冤罪事件であったことが白日の下にさらされた。

事件の詳細に関しては、さまざまなHPで紹介されているの省略する。ここでは、この事件から浮かび上がる問題点を簡単に指摘するにとどめる。

まず第一は、警察・検察の捜査に関する疑惑である。事件発生から逮捕に至る捜査の中で、かなり無理強いされた捜査が見られる。犯人を菅家さんだと決め付けた捜査が行われていたとしか思えないようなものになっている。「足利事件」と題するHPにある事件の経緯には、警察官の職権乱用としか思えない行為が記されている。そこで記されている寺崎巡査部長(当時)の思い込み捜査によって、この冤罪事件が引き起こされていることが推測できるのである。

この警察官、この冤罪事件に対してどのような責任を取るのであろうか。「捜査には合理的な疑いがあった」と、ここにいたってもなお言い続けるのだろうか。志布志事件の際、責任を問われたのは末端の警察官だけだった。捜査を指揮する検察幹部には一切、責任が問われないばかりか、却って事件解決の表彰が継続させられているのだ。

問題の第二は、警察・検察の思い込み捜査で捏造された捜査資料を鵜呑みにして有罪判決を下した裁判所に関わるものだ。裁判所は、第三者として客観的な視点からその事件に対する判断をすべきである。だからこそ、裁判所に対しては「司法の独立」が認められ、裁判官には中立であることを求めるとともに身分の保証がされているのである。

足利事件では事実認定に関する審議が一切なされていない。弁護士が代わり、まともな弁護士になってから事実関係を争い始めたが、最高裁までもが、宇都宮地裁判決に縛られ、十分な事実関係の審査をしていない。おかしい。最高裁判決は、単なる高裁判決の追認に過ぎなくなっているのである。

今のような状況で、何が国民主権だ、何が民主主義だ、と日本国家に対する不振と不満が蓄積されていく一方である。権力を持つ警察官の無知な思い込みが、国民の人生を台無しにしただけでなく、それを検察、裁判所までもが支え続けているのだ。警察官に捜査結果の責任を問うことは難しい側面があることは十分理解しているが、足利事件のような捜査に対してまで、責任追及を放棄する、つまり免責する理由が全く理解できない。捜査官、つまり寺崎巡査部長をはじめ、この事件に関わった警察官はすべて、適切な処分を下すべきだろう。

菅家さんはすでに証言している。「警察官によって自白を強制された」と。自白を強制した警察官に対しては、厳しい処分、つまり懲戒免職は当然、自白を強制したことでの特別公務員職権乱用罪もしくは特別公務員暴行陵虐罪などの適用を視野にいれた捜査もすべきである。

同時に、現在の司法捜査体制の根本的な改革も必要だ。代用監獄の問題など、現行制度は大きくかつ深刻な問題を孕んでいる。速やかな改革が必要なのだが、現行制度の恩恵をこうむっている人には反対が強いのだろう。残念!

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2009年6月 4日 (木)

1.26から1.37へ

日本の2008年の合計特殊出生率が1.37と発表された。2005年に1.26となって以降、3年連続して上昇している。日本の少子化傾向に歯止めがかかったかのように思い込んでしまう人もいるかと思うが、現象は深刻化する一方である。

合計特殊出生率は、女性が将来にわたって産むと推定される子どもの数である。女性といえども、一人で出産することが出来ないので、当然、男性と女性という2人の間で生まれてくる子供の数なので、この値は2であれば、当該社会集団の人口が変動しないということになる。ただ、子どもの死亡率も含めてしまえば、人口が減少しないためには、2.1くらいの値であることが望ましいとされる。

日本の合計特殊出生率はなぜ、減少しているのか。人口統計によれば、1966年の丙午の年に1.58と特異な数値を示す以外、1970年代半ば以降、合計特殊出生率は2以下となり、2005年まで若干の変動はあるものの減少を続けている。特に、1990年代になると1.5以下の数値を示すようになり、出生率現象は深刻な社会問題として認知されるようになった。

日本社会というマクロな視点で見れば、出生率の低下は、人口の減少に直結し、社会保障制度の長期的な安定という面で深刻な影響を及ぼすために、望ましいことではないということになる。しかし個人や世帯のレベルで見た場合、個人・世帯の収入が低下していく中、教育費などの支出が増加するとなれば、子どもの数を抑えようというインセンティブが作用してします。教育という面だけを見ても、公教育は崩壊間際にまで落ち込んでおり、私立学校に期待せざるを得ない状況が生まれている。文部科学省が教育現場に対して広くそして深く行い始めたさまざまな規制(その根拠としては、日教組などの教員組織が教育現場をだめにしているというものである)が、教員の教育にかける時間を抑制し、教育の質が極度に低下してしまったためだ。

一方、少子化は教育界にも影響している。レベルの低い私立学校には生徒・児童・学生が集まらないため、小中高等学校では進学に特化した授業が行われるようになっている。大学では、「お客様の学生様が、無事卒業してくださる」ことを目的とした、教育実態を伴わないベルトコンベアー方式の教育が行われている。能力を育成されることなく卒業した学生に、高い評価が与えられるはずもない。給与の低い職種に就かざるを得ないのだ。

そこに新自由主義の荒波が襲い掛かる。運よく就職できた企業も、能力の低い大卒者を雇用し続けることをしなくなったのだ。現在の30代は、就職氷河期と呼ばれる時期に就職活動をしなければならなくなった世代でもあるが、同時に、大学の変革が実施されている時期に卒業した学生でもあり、もっとも教育的成果が現れていない時期に学生時代を過ごした世代でもあるのだ。最近の学生に至っては、大学の淘汰が進み、その状況は可哀想としか言いようのないものにまでなっているのだが・・・・。

新自由主義は、能力のある個人であれば、行き抜けていくことができ、さらに成功していく機会を与えてくれる社会を創り出そうとするものではあるが、人並み以上の能力がないものに対しては(人並み程度の能力でも同じ)、生き抜くことが厳しく、社会での成功など望むべくもない絶望社会でもあるのだ。

だからこそ、自分が生き抜くことに必死になっているものが、さらに経済的負担の増える子どもをつくろうなどとは思わない。また子どもを生みことによって生じる可能性の高いさまざまな負担を担いきる自信と決意など、ほとんどの人がもてないのだ。

そう仕向けたのは誰か?

社会現象を考えるとき、ある出来事によって生じるメリットとデメリットを明確にし、メリットをもつ集団を特定すれば、なぜ、そうなったのか理解しやすくなる。今の社会制度になって、誰がメリットを受けているのか。扇情的・感情的・直情的な意見や世論はこのときには、無視しなければならない。現実的・実質的な受益者は誰なのか? 

決して一般の国民ではない、ということだけは確かなのだ。人口的に大多数を占める国民が、現状の社会制度で受益者になりえていない現実が存在するからこそ、出生率も低下するのだ。表面的・一時的な対策で対応できるような安易な問題ではない。

合計特殊出生率は増加したといっても、まだ1.37に過ぎない。この数値では、日本の人口は長期的に見た場合、減少するのだ。これまでの出生率の低下とあわせて、悠長に検討する余裕は日本にはないと思うのだが・・・。

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2009年6月 3日 (水)

嘘つきは「政治家」の始まり?

かつて「嘘つきは泥棒の始まり」といわれていた。嘘をつくということを平気でするようになると、泥棒のような悪いことも平気でするようになるとして、社会のモラル・道徳に反するような行為はやめるようにしましょうという諺だ。

今、新聞を見渡すと、平気で嘘をつく人が目立つ。なかでも、社会の中で高度に道徳観を持たなければならないと期待されている政治家と呼ばれる人たちが、平気で嘘をつくようになっているのには、驚きとともに呆れ果ててしまい、どうしようもない徒労感に見舞われてしまう。

政治家の中でももっとも重要な地位を占める内閣総理大臣についている麻生首相すら、「厚生労働省の改革はしなければならない」と発言した後、さまざまな批判にさらされると、「私は元々、厚生労働省の改革にはこだわってはいない。変な話を作らないでいただきたい」と責任をマスコミに転嫁する発言を平気でしている。テレビで流された録画の中で、ハッキリと言いながらも、その発言の責任を取ろうとはせず、言いぱなしのままにしている。

また先日行われた麻生自民党総裁・内閣総理大臣と鳩山民主党代表との党首討論の場で、麻生首相は「意図せず法律を犯した人が、逮捕されることはありうる」と発言している。この発言は、刑法第38条第1項の規定を無視した発言である。刑法第38条第1項には「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」と規定されているのだ。行政の責任者が基本的法律事項を知らなかったのだろうか。

多分、麻生首相は刑法第38条第1項の規定を知らなかったのだろう。そうでなければ、もし知っていたとすれば、これこそ故意による名誉毀損である。刑法230条の規定に基づき、その法的責任を追及されなければならない。当然、政治的責任を取り、内閣総理大臣を辞職するだけでなく、衆議院議員も辞職する必要があるだろう。

麻生首相は刑法38条を知らなかったに違いない。だとすれば、自らの発言が、日本の法体系とは異なることを発言したのであるから、公の場で国民に対して、また討論の相手である民主党代表に対して、ハッキリと謝罪する必要があるのではないか! 「私が無知でした。申し訳ありません」と!

自民党総裁からしてそうであるので、他の政治家にしては何をやいわんかである。自民党は世襲禁止の規定を次の選挙から行うと明言した幹部がいるにもかかわらず、その実施を先延ばしにした。なぜ、そのようなことになったのか、一切説明をしようと模していない。

このままでは「嘘つきは泥棒の始まり」ではなく、「嘘つきは政治家の始まり」といわれるようになるに違いない。そのような状況がよいものであるはずはないのだ。基本的な部分での襟を正す必要が、政治家には求められていることに気付いて欲しい。

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2009年6月 1日 (月)

自民党と政府の迷走と欺き

2005年の総選挙では郵政民営化を争点として、自由民主党が小泉純一郎総裁の下で大勝を収めた。与党(自民党と公明党)は衆議院定数480議席のうち300議席を超える絶対安定多数を獲得した。現在(2009年6月)、衆議院で自民党303議席、公明党31議席を持ち、参議院で民主党を中心とする野党が多数を占めていて、衆議院で3分の2以上の多数で議決することで、現与党および政府の提出法案が可決される状況を生み出す元となっている。

2005年の総選挙は別名「郵政民営化」と称されるように、小泉政権の訴える「構造改革」に対する信任を問うものであった。多くの国民は、「構造改革」政策を推進することによって、政府機構の中に巣食う官僚の「無駄」や「規制」を排除し、自由で活発な活動が出来る社会が到来すると信じ込まされた。例え、「構造改革」路線の本質が、グローバリズムの進展と軌を一にし、今では「強欲資本主義」あるいは「貪欲資本主義」などと言われる弱者切捨てを推進する政策のパッケージであったとして、夢と希望を与える小泉首相(当時)の演説に酔いしれ、その希望と夢に将来を託したのであった。

その後、小泉首相は1年で首相を辞任(自民党総裁の任期切れに伴うもの)し、安倍首相、福田首相、麻生首相と約1年ごとに首相が交代してきた。安倍・福田両政権は、曲がりなりにも小泉政権の「構造改革」路線を踏襲し、規制緩和を進めようという姿勢だけは示していた。行財政改革をすすめる基礎となる公務員制度改革にも取り組もうという姿勢はうかがえた。しかし現在の麻生政権は、「みぞゆう」の世界的な経済危機を言い訳に、小泉政権から受け継がれてきた「構造改革」路線を変更した。

通常、基本的な政策変更をする際には、選挙という手段を用いて国民の信任を問う必要がある。しかし麻生政権は、政治家としての基本的モラルすら失ってしまったかのように選挙で国民の任人を問うことすらしようとしなった。

筆者は小泉政権の行った「構造改革」は強欲資本主義の典型であり、即座に修正していかなければならないと考える。その意味において、麻生政権の政策変更は正しいといえる側面も持つ。ただし、麻生政権が行った政策変更の変更先は、小泉構造改革の持つ数少ない正しい側面、つまり官僚による規制を緩和する側面を喪失させ、かえって官僚などの権益を拡大させる方向に持っていこうとするものであった。さらに建設業界などこれまでの保護的政策のため、競争力を失ってしまっていた業界に自助的な構造改革を促す意味で負の側面も多いが、推進していく必要があったものまでをも、高速道路の建設の再開、公共事業のバラマキなどの経済政策という名の、旧態依然とした政策で競争力の再起の機会の芽を摘み取ってしまった。

麻生政権の政策は国民の信任を受けていないばかりか、国民が2005年の総選挙で期待した政策をすべてご破算にするばかりか、旧態依然とした既得権益者の利益保護の政策を推進するのみである。

自由競争の名の下で、企業と労働者の関係は、圧倒的に企業の立場が強くされてきた。企業の剰余金や株主配当の増加は、従来の日本企業が持っていた経営者と労働者の良好な関係を崩壊させているのだ。欧米的な労使関係に、政策によって強制的にされてしまったうえに、労働者の権利がないがしろにされてきたのが、ここ10年の日本の労働政策である。こうした矛盾を修正するどころか、かえって強化しようとしているのが現在の補正予算案などにみられる政策である。

9月までの任期なのだが、それまで待たなければならないのだろうか。日本は未曾有の経済危機に直面し、基礎体力を失いつつある今、1ヶ月といえども無駄に出来るのだろうか。民主党に自民党に変わるヴィジョンがあるかといえば、疑問も多い。しかし少なくとも今の自民党政権よりは「マシ」だと思う。少なくとも、口を捻じ曲げ、記者の質問をシニカルにしか答えない内閣総理大臣よりかは、民主党党首の方が「マシ」だと思う。

自民党政権の過去4年間は、国民を欺く政策しか行ってこなかった。加えて、その政策も国民の批判をかわすために迷走に継ぐ迷走を重ねている。ここまで国民を馬鹿にした政権が過去にあっただろうか。いい加減、辞めたらどうですか、麻生首相!

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