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2009年5月

2009年5月29日 (金)

政治家の責任

政治には、さまざまな利害が衝突する時にその調整を果たす機能が求められる。今の日本でそのような機能がはたして果たされているのだろうか?一つの事例として、日本の表玄関であることが期待され、かつアジア地域のハブ空港を目指して建設が進められてきた成田空港について取り上げてみたい。

成田空港に関しては、このブログで取り上げたことがあるので、経緯についてはそちらを見ていただきたい。成田空港問題は、イデオロギー的な人も介入し、まさに泥沼状態に陥っている。この問題を解決させることこと、今の政治に求められていることではないのだろうか。

麻生政権が発足した当初、国土交通大臣になった中山成彬大臣は、根拠のない日教組批判とともに、成田空港建設問題にも無知を曝け出した。成田空港周辺の住民に対して「ごね得」と言い放ったのだ。成田空港問題は、その発端を見れば明らかなように、政府の無理強いと無責任な発言によって、問題を捩れに捩じらせたのであり、決して住民側が積極的に問題を拗らせていった訳ではない。まさに中山元国交大臣のような無責任かつ無知な政治家と、保身と無責任を追求しようとし続けた官僚のために、成田空港問題は解決が困難な状態に陥っているのだ。

しかし解決が不可能なわけではない。問題をこじらせた責任を、拗らせた側がとれば済むことである。当時の担当部署の関係者、政治家などに謝罪させ、かつ現在の地域住民に十分な補償を行えば、決して解決不可能な問題ではないはずだ。政府の誰もが責任を認めようとしないからこそ、力のない住民は、自らの権利を堅持するしかなくなるのである。

安易な方法としては強制的な土地収用制度の活用も考えられるだろう。しかしここまでこじれた状態で土地収用などを実施すれば、いっそう問題を解決困難な状態へと陥れてしまうことになる。官僚お得意の見せ掛けだけの意味ではなく、本当に「真摯な」交渉を即刻開始し、問題を解きほぐしていく努力を、官僚ではなく、政治家が率先して行う必要が差し迫っているのだ。人間はいつまでも生きているわけではないのだ。

筆者には一つ、提案がある。将来のいつの日にか、政府が行った行政活動に何らかの瑕疵が判明した場合、それが通常の注意義務さえも怠っていたと推定される場合には、時効のない政策決定責任者の過失責任を、懲役なども含めた厳しい処罰をする規定を制定するようにするというものだ。現在の官僚は、組織として活動しているため、個人の責任を追及されないように諸制度を制定している。だからこそ、成田空港問題のように組織が批判されても個人に責任が追及されないために、解決が先延ばしになってしまうのだ。解決が先延ばしになってしまえば、それだけ無駄な出費が増大してしまうのだ。官僚の過失(過失だけでなく故意も含む)のために国民の税金が無駄に出費されていいはずはない。

形ばかり首相と振る舞い、その責任を一切負おうとしない麻生首相には、上記のような決断は出来ない。次期政権に期待するしかないが、それは決して自民党政権ではない。民主党政権に問題は山積しているが、自民党政権よりはまだましだろう。

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麻生太郎氏は「政治家」失格!

日本の政治制度は、行政(内閣)・立法(国会)・司法(裁判所)の三権が分立している。くわえて、こうした制度を安定化するために法治主義を採用している。権力の分立も、日本国憲法の規定によるものであるし、さまざまな政治行為はすべて法律の規定に基づき行われるようになっている。

政治家とは、通常、議会のメンバーのことをさすことばである。国政レベルだと国会議員ということになる。国会議員は衆議院480名、参議院242名、合計722名もの多数になるため、中には法律に疎い人がいるのは仕方ないことである。それでも日本の法律の基本原則・基本理念などを理解していることは、国会議員である上の基本であるし、法律を作る使命を持っているという事を考えれば「義務」でもある。

麻生太郎という人物は、福岡8区(直方市,飯塚市,山田市,中間市,遠賀郡,鞍手郡,嘉穂郡)から選出された衆議院議員であり、国会の互選によって内閣総理大臣に使命・任命された政治家である。

2009年5月27日に行われた党首討論の中で、麻生太郎首相は、次のような発言をしている。

麻生 いろいろご意見があるようですけども、まず最初に、先ほどのお話をうかがって、一つだけどうしても気になったことがありますんで、ここだけ再確認させていただきたいのですが、正しいことをやったのに秘書が逮捕されたといわれたんですか
鳩山 本人としては、政治資金規正法にのっとってすべて行ったにもかかわらずと。これは本人が昨日、保釈をされました。そのときの弁であります。
麻生 基本的にご本人の話であって、正しいと思ってやったけれども、法を違反していたという話はよくある話ですから。少なくとも、それをもって国策捜査のごとき話にすり替えられるのは、本人が正しいと思ったというお話ですけれども、本人が正しいと思ったことであっても、少なくとも間違った場合は逮捕されるということは、十分にある。それは国策捜査ということには当たらないのではないかと私どもは基本的にそう思っております。

まさに暴論。日本の法制度を無視した発言であり、自らが内閣総理大臣として持つ権力を乱用していると、批判せざるを得ない。

名城大学の郷原信郎教授のコメントは秀逸である。刑法38条第1項の規定の意味を麻生首相が理解していないことを指摘し、政治家として見逃すことが出来ない資質の欠如であると断罪している。週刊朝日の編集長、山口一臣氏の批判も、郷原教授の指摘を引用しつつ、麻生首相の首相としての資質を問うべきだとする厳しい批判を行っている。

お二人の批判は、読む者にもっともだと思わせる正当性を持つものだと思う。さらに筆者は、前述したとおり、内閣総理大臣として法律の基本も知らずに職務が執行できるのか、という疑問を強く指摘しておきたい。

自動車を運転するものには、運転免許が必要である。小学校、中学校、高等学校で教壇に立つ者には、(原則として)教員免許が必要である。大学の教員には教員免許状はないが、それに見合う資質があるかどうかを、各大学の教授会が審査している。

政治化には、当然のごとく「政治家免許」なるものは存在しない。だから、政治家は、一定期間のうちに行われる「選挙」という試験に合格しなければならない。ここで、政治家としての資質を有するか否かが審査されているのだ。

筆者は、麻生太郎という人物には政治家としての資質が欠如している、と断言する。とすれば、筆者はそうした人物を選出した福岡8区の選挙区の人々の判断に異を唱えたくなる。福岡8区の人々は、次回選挙でも、「推定無罪」、「疑わしきは罰せず」などの法律の基本原則と、刑法第38条第1項の「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」という条文を全く理解しようともしていない人物を、自らの選挙区から選出された代議士として選出するのだろうか。

福岡8区の選挙民だけではない。現在、自民党代議士は、麻生太郎という人物を自らが所属する政党の総裁として選出しているのだから、自民党代議士が持つべき責任はどうなのか。またそうした代議士を選出した選挙区の国民の責任は?

麻生太郎という人物は、批判されると口を捻じ曲げて、批判する者を斜に見ながら、高圧的かつ一方的に反論し、その批判者の再度の批判には一切耳を貸そうともしない。今の制度では、この人物を首相の座から引きおろすことは出来ないようなので、国民が審判を下すしかないのだ。次の選挙は遅くとも9月までには実施される。そのときに、下される審判に期待するしかない。

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2009年5月28日 (木)

女性の服装

東京都杉並区教育委員会の教育委員の「最近の女性の服装の乱れは度を超しており指導が必要」という趣旨の発言に批判が起こっているという。(朝日新聞記事) 批判する側は、教育委員の発言は教諭が痴漢容疑で逮捕された後でもあり、痴漢事件を引き起こした責任を女性側に押し付けるように聞こえたからだという。

ただし発言した教育委員は、痴漢事件の報告とは別件であると前置きをしている。とすれば、痴漢事件の報告に関連した発言であるとしても、痴漢事件の責任を女性の服装の乱れに負わせようという意図ではなく、女性の「服装の乱れ」を改善させる必要があるという意識を喚起しようとした発言だと考えるのが通常の認識ではないだろうか。

よく分からない批判だ。ただ発言した教育委員の発言の仕方や態度など、新聞紙上には出てこない部分も多いと考えられるので、批判する人を一方的に批判するつもりは毛頭ない。もしかしたら教育委員の方は、批判されて当然な物言いをされたのかもしれない。ただ新聞記事を読む限り、上記のような感想を持つ。

加えて、「女性の気持ち」というものを声高に主張する人々(フェミニスト?)に対する不信感は拭い去れない。女性の「服装の乱れ」は、男性であれば誰もが感じるところだろう。特に、若い女性たちの中には、目を覆いたくなるような服装をしているものも決して少なくない。服から下着をわざと見せているのかもしれないが、異性からすれば、決して魅力的なものなどではない。むしろ気分を害する不愉快なものなのだ。

かつて女性のヌード写真が街中に見えるように張られていることに批判した人々は、現在のような女性の「服装の乱れ」はどう思うのだろうか。女性だけが不愉快な気持ちになるものは撤去するように主張するが、その一方で男性が不愉快なものは放置しておいてもよいと考えているのだろうか。

男性にしても、女性にしても、性別に関係なく不愉快なものは不愉快なものなのである。ファッションなどという言い訳をするものも多いが、少なくとも学校教育を受けている生徒・学生には、所属する教育機関が注意を喚起する必要はあるのだろう。

筆者自身、通常の感覚を持つものと思うが、少し前かがみになると胸の奥まで見えてしまう服装をいいものとは思わない。かえって「だらしない女性だ」と思う。スカートが短く、パンツが見えてしまうような服を着ている高校生などの女の子も多いが、彼女たちを見て、「大丈夫か、この子たちは?」と心配になってしまう。エスカレータなどで前に立っている女の子が短いスカートをはいていて、後手でスカートを抑えている様を見る時には、正直心の中で「アホか、この子は」と毒づいてしまう。

ファッションを強制するような気はないが、少なくとも他人の目を意識した、しかも健全な常識を持つような服装にして欲しいと願う。

痴漢事件に関わる教育委員会委員の発言の記事を読み、批判が少し的外れな感じを受けてしまった。

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政治家という生き物は!

民主党の鳩山代表と、自民党の麻生総裁(首相)の党首討論が行われた。予想以上に聞くに値するものとなったところもあったが、基本的には「ホント、政治家という生き物は何を考えてんだ!」という憤りを感じさせられるものであった。

一方的に自説を滔々と論じる必要もあるのだろうが、自説を開陳する理由を少しは考えているのだろうか。政治家の意見は、すなわち政策立案に直結するのである。特に、政党の党首ともなるとその影響力は大きい。にもかかわらずである。意味のない上げ足取り、自己正当化に終始し、決して建設的かつ生産的な意見交換にはなっていなかった。聞く国民にしても、訳の分からない論理矛盾にみちた意見を開陳させられ、しかも言い訳がましいことばかり聞かされて、あまりの無意味さに呆れ果てたことだろう。

今の経済情勢が危機的な状況におかれていることに異論はない。その危機に対処するためには、どのような政治理念と政策があるのか。それを国民に開陳するのが、党首討論の本旨である。少なくとも、麻生首相には、党首討論の意味など理解されていないのだろう。こういう人物が、言い訳し、責任をすべて他者に押し付けようとする人物が、首相を務めていることに、誰も危機感を感じないことが不思議でならない。

遅くとも9月までには総選挙が実施される。その時までは、今まで積もり積もった不満や不振を忘れることのないようにしたいものだ。

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2009年5月27日 (水)

教育現場の実態

日本の企業などにも同じことが言えるのだが、ここでは教育現場の実態を俯瞰してみたい。

現在、教育現場を指揮指導しているのは、教育委員会である。都道府県レベルの教育委員会には、文部科学省からのキャリアが教育長なりのポストでやってくるが、市町村レベルの教育委員会の事務方は、その多くが教員の中で、教育委員会のお役人様から「こいつはやるな」と思われる者が引き抜かれ、教育委員会のお偉方となっているケースが多い。

このお偉方が、教育現場にいたのはかれこれ10~20年前。その頃は、今ほど、セクハラやパワハラなどが問題視されることはない時代でもあった。「学校の先生は聖人であるべきであるし、そうである」という意見が、世論の多数を占め、先生が間違ったことなどするはずがない、という雰囲気の中で教育現場にいた連中でもある。

こういう人たちは、今の基準から見れば、セクハラやパワハラは当たり前。先輩の言うことを聞かない奴らには、ヤキを入れてやれ、くらいの感覚を持つものばかりだった。地位が上がるにつれ、あまりに品格のない言動は慎み始めたかもしれないが、彼らの言動そのものが批判され、注意されることなどなかったため、本質的には過去の言動とそれほど異ならない本性を維持している。

加えて、教育委員会のお偉方から評価されるような教員だから、児童・生徒のために教育に全精力を傾けているような教員でもない。上を見て、ゴマをすり、したには厳しく接する連中ばかりであった。

こういう連中が現在の教育委員会のお偉方として君臨している。そこに、文部科学省から、今の教員には問題が多いから対策を採るように、という通達が届くとどうなるか。その反応は簡単だ。できるだけ、自らの責任を問われないように、ありとあらゆる出来事を教育委員会に報告するようにとし、現場の教員は書類作りに多くの時間を取らざるを得なくなってしまうことになる。

児童・生徒・学生に接することの少ない教員が、児童・生徒・学生の個性に応じた教育など出来るはずもない。現場の教員は、出来るだけ努力しようとするのだろうが、ある時点でその緊張が解けてしまうと後は、手を抜き、自らにも責任が及ばないような事なかれ主義といわれる授業をしてしまうことになる。

日本史に関わる授業を例にしてみよう。鎌倉時代から室町時代にかけての時期、室町幕府を作った足利尊氏よりも奈良の豪族の楠木正成の記述が多いのはなぜか? この疑問を持つ生徒はまずいないだろう。だから、この時代の説明をするときには、歴史というものを真面目に学び考えている教員であれば、日本史の中における天皇の位置づけに触れなければならない。しかし、この問題は天皇制度に関わる問題でもあり、文部科学省はなんら指針を示してもいない。どちらかと言えば、クレイジーなナショナリストの歴史家たちの主張する足利尊氏よりも楠木正成を重要視すべきだという偏向した考えに組しがちである。だから、○×年□△があった、という記憶中心の授業を構成してしまうのだ。

歴史とは物語でもある。ある出来事の歴史的背景を抜きにしては、その出来事の意味など分かりはしない。にもかかわらず、出来事を羅列するだけでは、その授業が面白いはずもなければ、聞いている生徒の知的好奇心を刺激するようなことなどありはしない。

面白くない授業ばかりなので、生徒たちは教員に反抗するようになる。生徒児童の反抗的態度に大人として、真摯に向き合ってしまえば、保護者からのクレームが怒り、教員評価の原点になってしまうので、事なかれ主義的に問題を丸く治めよう治めようとする。生徒児童も決してバカではないので、そうした大人の対応をせせら笑いながら、いっそう大人を馬鹿にし始める。そして問題はより深刻なものへと発展してしまうのである。

児童生徒の問題が社会問題へと発展してしまえば、文部科学省も世論の批判をかわすために、各教育委員会に対策を採るように通達を出す。各教育委員会は、文部科学省の通達をいっそう厳しくした指導を教育現場に行う。かつて体育会系の連中が持っていたメンタリティが発揮されるのである。

教育現場は、いっそう教育委員会への報告書を提出する必要に迫られ、今まで以上に児童生徒と接する時間は減少してしまう。まともな教員は、そうした現場に嫌気がさして、やめていく。まともな教員であれば、他の業種に移ったところで、十分に評価されるだけの能力を持っているからである。残った教員は「カス」が多くなっていく。いっそう問題は深刻化してしまう。

このような負のスパイラルが日本の教育現場に起こっている。ここで記したことは、決して妄想でも想像などでもない。現場の教員の生の声である。

教育委員会には、教育のことなど分かりもしない連中ばかりがそろっているのだ。さらに文部科学省のキャリアは、国家公務員試験合格者の中でも最も人気のない省に入省するしかないようなぎりぎりの成績の者たちばかりだ。変な特権意識と劣等意識を併せ持つ、ある意味では最もタチの悪いキャリアとも言える。こんな輩に、将来を見据えた教育改革、教育行政など出来るはずもない。期待するほうがバカだとの批判にはかなりの正当性を感じる。

根本的な教育思想の転換しかないのだろうか?

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2009年5月19日 (火)

反省

このブログで記したことをまとめて読み返してみた。読み返してみて感じたことは「暗い!」というもの。ここでは思いつくままに書き連ねているだけなので、推敲はもとより、文章の構成なども全く考えていない。文章の稚拙さは否めないものの、ここまで暗い文章だとは思わなかった。まったく! 筆者の性格が正確に出てしまっている。

物事を斜に構えて眺め、批判的に見ようとするところは、筆者の仕事に関係する癖ではあるが、それでもここまで批判的にならず、建設的なことも書けばよいのに・・・・、と思う。

反省しなければならないだろう。社会の負の側面に焦点を当てすぎているようにも思う。よいところにも言及しつつ、悪いところを明らかにするようにしてみたい。

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2009年5月18日 (月)

教育を放棄する大学

教育とは何か? この疑問の問いかける内容は深く広い意味があるが、答えは簡単だ。人間を教え育てることである。何を教え、どのように育てるかは、その社会のおかれている状況や、社会が持つ基本的な方針に大いに依拠する。ただ最低限、社会生活を送るために必要な最低限の知識とマナーを身につけさせ、それらを応用しながら社会生活を送れる人間を社会に送り出すことが、教育機関の責務である。

現在、大学のおかれている状況は厳しい。18歳人口の減少により、大学に入学してくる学生の数は減少する一方なのに対して、短期大学が4年制大学になったりして、大学は増加しているからだ。私立大学にとってこれは経営的に厳しい。

だから、入学した学生が大学に不満や不平を持たないように努めるのだ。ただ、この時に注意しておかなければならないのは、多くの場合、学力の低い学生はマナーや基本的な道徳観も低い傾向にあるということだ。誤解を恐れずに直接的に表現すれば、程度の引く学生が底辺大学、三流大学には多く入学してくるということだ。

このような学生は、勉強をするために大学に入学してくるのではない。自己研鑽しようとして4年間を費やそうとも思っていない。楽をして4年間を過ごし、楽しい大学生活を送ろうとしているだけだ。通常の道徳観やマナーを持っていれば、「楽しい大学生活」とは、大学での学びとともに友人を増やすための遊びも行う、ということをイメージするだろう。しかし前期の学生は、単に遊ぶことしか考えていない。大学で勉強しようなど考えてもいない。もし仮に勉強もしようかな、と考えている学生がいても、通常の大学の講義で話されている抽象化された議論は、理解しようもないのだ。

だから前記のような多くの学生は、講義にも出ず、遊び続けている。とすれば、単位を取得することは出来ないはずなのだが、そこは大学経営を真剣に考えている大学経営者は、よく考えた。例え講義に出席していなくとも、自宅で勉強していればいいのだからと言い張り、講義を担当する教員に単位を出すことを強制するのだ。方法はさまざま。ここに記すことは避けるが、給料の減額だけでなく、通常であればパワーハラスメントといわれる行為を持続的かつ継続的に繰り返し続ける。

大学を生き残らせるために、学生を育てることを放棄し、例え学生がどのような朗とも、その問題には一切立ち入らず、授業料を支払ってくれる学生が無事、卒業してくれることだけに心血を注ぐようになっているのだ。

約600の大学があるが、その多くは経営に苦しみつつある。そのため、多くの大学上記のような「経営努力」に傾注しつつあるのだ。本当に真剣に頑張っている。しかしそれは教育が本来持つべき意味を失い、堕落した人材を社会に送り出すだけの機関に大学が転化してしまっているに過ぎない。「中にはいい学生もいるよ」というなんとなく納得してしまいそうなこうしたフレーズに隠れている事実は、10年後の日本社会に大きな禍根を記すものだ。もはや大学卒などは信用しないほうがよい。○×大学というどの大学かが、今からは重要になってくるのだろう。

今の日本の大学は、その多くが教育を放棄してしまっている。これは、学業成績という一つのものさしでしか、人間を評価していない日本社会の根本的な問題を反映したものでもある。

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新型インフルエンザへの過剰反応:厚労省狂走曲

新型インフルエンザが日本国内でも猛威を振るいつつある。空港などの入国時の検疫を強化することで、国内への感染拡大を防ごうとした厚労省の思惑は失敗してしまったといえる。

この新型インフルエンザ、感染力は著しく強いようだが、その毒性は決して強くはない。WHOなどの報告では、季節性インフルエンザとその毒性はそれほど変わらないという。初期の段階で適切な処置を行えば、ほぼ治療されると考えられている。とすれば、季節性インフルエンザと同じような措置を取ればよいのではないか・・・・、という疑問が湧いてくる。

このインフルエンザについてあまり知られていない段階においては、最悪の事態を想定し、現在の取りインフルエンザのパンでミックを想定した厳しい感染拡大阻止策をとることも理解できるが、新型インフルエンザの様態がそれなりに判明した現在において、現在日本政府が取っているような拡大防止策をとり続けることが適切なのかどうか、大いに疑問が生じている。

北九州市教育委員会などは、神戸に修学旅行に言った小中学生に数日の自宅待機を命じたという。まさに「過剰反応」であり、このような危険性という大義名分をかざした無責任な施策が堂々と実施されているのだ。余りに騒ぎすぎだとの思いが強くなっている。

新型インフルエンザの対策の音頭をとる厚生労働省にしても、「国民に冷静な対応を!」と呼びかけている大臣が、異常な行動をとっている。ご本人を陣頭指揮を執っているかのように思っているのだろうが、大臣自らが深夜・総長に関わらず、テレビに出てきて新型インフルエンザに感染した患者のことを発表するものだから、報道機関としては報道せざるを得なくなっている。

大臣の個人的な売名行為を目的としたパフォーマンスだとすれば、日本政府の大臣ものこの程度か・・・・・、と諦めるしかない。もしそれほどに重要な状況にあるのであれば、その説明をはっきりとするべきであろう。国民生活に多大な影響を与えている理由を明確に説明すべきであろう。出来ないのであれば、こんな政府、つぶしてしまったほうがはるかによい。

今のところ、厚生労働省によるバカ騒ぎ(狂走曲)としか思えなくなっている。

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2009年5月15日 (金)

飲酒運転

普段お酒を飲むことは少ないが、お酒を飲むと、愉快になることがある。ストレスを発散することも出来、気分もよくなる。友人と楽しい会話をすれば、いっそう気分をよくしてくれる。お酒は百薬の長とも言うそうだが、なかなかいいものだと思うことがある。

しかしお酒を飲んで車を運転した場合、お酒を飲んでいる時の愉快さは吹き飛び、地獄の日々に突き落とされることになる。

今から約3年前、福岡で悲惨な交通事故があった。福岡市の職員であった若者が、親子5人が乗った車に追突し、親子の乗った車を海に突き落としてしまった事故だ。かろうじて父親と母親は命を救われたが、幼い三人の子どもの命は、この世から天国へと旅立ってしまった。このニュースを聞いたときの驚きは今もまだ忘れられない。筆者にもこどもがいて、子供を失ったご両親の心情を思うとき、なんとも居た堪れない気分になったことを覚えている。

その事件の高裁判決があった。危険運転致死傷罪が適用され、懲役20年という非常に重い処罰が言い渡された。3人もの命を奪う事件になったのだから、仕方のない判決のようにも思うし、また同時に、飲酒運転をしてしまった福岡市の元公務員にも、若干の同情を禁じえない。「飲んだら乗るな」とは昔から言われていたことであるが、この若者の人生は、あの飲酒運転のために狂ってしまったことを考えると、(当然、それだけの責任があるのだが)どうしたも同情してしまうところがある。お酒というものが持つ非情な部分だと思う。

飲酒運転は、飲酒運転をしたものだけでなく、飲酒運転に起因する事故の被害者にも被害を及ぼす。お酒そのものには非がないのであろうが、お酒のもつ誘惑は、時として人の人生を狂わすことになるのだ。

だからこそ、飲酒運転に対する罰則を、これまでとは比較にならないくらい厳しくして、飲酒運転を撲滅しようとしているのだ。警察も飲酒運転を撲滅させるために、頑張っているのは、飲酒運転が招いてしまう様々な悲劇を失くすためなのだ。にもかかわらず、愚か者がいる。

愛知県警守山署の副署長を勤め、長期にわたり交通部門に勤務をしていた小川直哉警視(54歳)が飲酒運転の容疑で摘発された。この事案、飲酒をした後、守山署に停めていた自家用車を運転して、再度、守山署に戻ってきたところで摘発されたというものだ。

こんなトボケタ事件があるのか、と怒りすら覚えた。

マスコミの報道では、「警察幹部による飲酒運転」という点にのみ焦点が当てられているが、この警察官(小川直哉警視)は、警察署に停めていた自家用車を飲酒運転して、警察署に戻ってきて摘発されたのだ。法律を守るべき警察官が、警察署の敷地内で飲酒運転という最も唾棄すべき犯罪行為を行っていたのだ。

さらに問題と思うことは、この警察官、つまり小川直哉警視は任意による捜査の対象であり、逮捕されていないということだ。このような事件を、警察官以外の者が、しかも警察幹部以外の者が起こした場合、逮捕されるのが普通なのではないだろうか。警察官の犯罪には甘い対処をする警察の特徴があまりに見事に現れており、小川警視のみならず、守山署という警察署に組織的な問題があるのではないかとの疑問を感じざるを得ない。

とにもかくにも、飲酒運転は、社会の敵である。

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「公務員」と「元公務員」の問題

公務員とは、公の機関で勤務する人々のことである。中央官庁、都道府県庁、市町村役場などで勤務する人々はその典型だ。それ以外に、○×市水道局など現業部門で働く人々も公務員である。公務員の特徴は、その給与が税金によって賄われているということだ。

税金から給与が支払われる公務員は、当然のごとく、公共の福祉のために勤務することが求められる。そして、仕事にか関わる様々な出費・経費も、出来るだけ低く抑え、効率的かつ能率的に使用することが求められるはずである。

現実はどうか? 政府予算(地方政府も含む)が基本的に単年度予算であるという制約もあり、与えられた予算をどれだけ使い切るか、ということが仕事をしたかどうかの判断基準とされているため、予算(=税金)をどれだけ効率的に使用し配分したかは評価されていない。「勝ち取った予算」(?)を使い切った者が、「仕事の出来る奴」という評価になってしまう。本来、公務員に期待される、あるいは公務員に求められる基準で仕事をしていないのが現実だ。

公務員組織が縦割り・横割りにされているという制度的問題もある。この問題は、予算執行の上で、いっそう、弊害を強化してします。国の出先機関と、都道府県の部局、さらには市町村の部局とが、その職務を競合してしまう場合、それぞれの機関が話し合い、協力して職務を遂行すると考えるの、一般国民の常識である。しかし、公務員の発想は異なる。それぞれの部局が、それぞれに予算を獲得し、その予算消化を目指すため、国のやることには、都道府県、市町村の部局は一切関与しないし、逆もそうである。二重・三重に同じようなものが作られたりすることになる。「無駄使い」以外の何者でもない。

ただ公務員である限り、公務員としての職務規定があり、あまり露骨に予算を私的に流用することは出来ない。そこで公の予算を私的に流用するための方策を創り出す必要があった。それが公的機関と密接な関係を持つ行政法人である。財団法人、公益法人など、いろいろな位置づけが与えられているこうした関連法人は、公務員にとってとても「おいしい」存在となっている。

公務員を退職した後、関連法人に「再就職」(=天下り)し、公務員ではなくなった身分で、公的資金を私的に流用しようとするのだ。ただ業務上横領などで捕まってしまっては身も蓋もないので、「会議費」や「出張費」などの名目で、私的に公的資金を流用する。そしてそうした資金を監査する公的機関にいる後輩たちには、「将来の就職先」というニンジンをぶら下げておけば、そうした問題が表に出ることはない。時には、後輩たちを会議を実施するときの講師として招聘し、講師謝金として法外な謝金を支払えば、これこそ、安全だ。

ちなみにこうした法人で実施される会議の講師謝金は、招聘される人によっても異なるが、実質的な謝金(公にされていない部分も含んだ写真という意味)は、数十万円に及ぶことも珍しくはない。わずか1時間くらい、自らがしている仕事の話をするだけで数十万円の謝金を手にすることが出来るのだから・・・・・・、羨ましい

今回の大型補正予算には、隠れた公務員救済策が沢山盛り込まれている。最近の公務員批判の中で疲れきった公務員を励ます意味でも、こうした救済策を、こっそりと麻生首相は盛り込んでいるのだろう。「公務員を批判するのではなく、使いこなすことが大切だ」と言い切る麻生首相らしい、「粋な計らい」(ご本人だけの評価)だ。

でも、こうした計らいの結果、無駄に使用される予算を支払っているのは、国民の税金である。今のままであれば、近い将来に消費税率を上げなければ、国家財政が破綻してしまうことは間違いない。その時になってからでは遅いのだ。その時に、公務員が財政を破綻させてしまった責任を取るようなことなど絶対似ない。責任を他者に転嫁するだけである。そうなる前に、だまされず、将来を見据えた選択をしなければならないのだ。

そうは言っても多くの人はそうは思っていないらしい。まあ、なるようにしかならないのだけれど・・・・・・・!

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2009年5月13日 (水)

教育委員会というもの

日本の教育現場を管理しているのは、各地に設置された教育委員会である。都道府県教育委員会とその下位行政単位を基礎とする市町村教育委員会がある。

この教育委員会は、元々はアメリカの教育制度を模倣したものであり、教育委員は当初、選挙によって選出されていた。しかし日本の風土に合わないということで教育委員の選挙は中止され、今のような文部科学省の下部機構として機能し始めたといういわくつきのものである。都道府県教育委員会の教育長には、文部科学省の官僚がつくことが多く、日本の教育制度は文部科学省の管理下に置かれている。

教育とは本来、教育を受ける者にどのような教育をするのかという基本方針の下に実施されるべきものである。個性豊かな子供の育成などが歌われることが多いが、子供が個性豊かで自由な発想をするようになれば、国家に対する忠誠心が損なわれると考える文部科学省は、そのような教育を実施しないようにしている。また、管理責任を問われることも極端に嫌い、管理責任を問われる可能性が少しでもあれば、教育委員会の責任が問われないように最善の策をとろうとする。

次の朝日新聞の記事は、くしくもそうした教育委員会の実情を示すものとして興味深い。少し長くなるが引用しておく。

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徳島市、全小学校の修学旅行中止 新型インフル警戒
                2009年5月13日3時2分

 成田空港で新型の豚インフルエンザの感染者が確認されたのを受け、徳島県教委が修学旅行の再検討を求め、県内の公立小中学校約300校のうち少なくとも162校が国内旅行の中止・延期を決めたことがわかった。徳島市内では全31小学校が5月に予定していた6年生の大阪、京都、奈良などへの旅行を中止。県内では「過剰反応」との声があがっている。
 徳島県教委は、カナダでの語学研修から帰国した大阪府立高校の教員と生徒らの感染が確認された9日、県内24市町村教委に「修学旅行等については当分の間、中止を含め再検討すること」と通知。その後、中止や延期の決定が相次いだ。
 朝日新聞が各教委に取材したところ、中止の徳島市のほかに、鳴門市の全18小学校、阿南市の全21小学校、三好市の全22小学校、小松島市の全11小学校が5~6月の旅行を延期。一方、那賀町は13日からの関西への5小学校合同修学旅行を予定通り実施する。
 県教委学校政策課の尾崎好秋主幹は「結果的に過剰な反応だったということはありえるが、児童・生徒の安全を考えた」と言う。
 一方、徳島市の原秀樹市長は12日の記者会見で「過剰反応だ。夏まで続けば、高校総体や甲子園にも行けないことになるのか」と指摘。文部科学省児童生徒課の担当者も「現段階では国内の修学旅行の延期や中止が必要な状況ではない」としている。

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この新聞記事にあるように、徳島県教育委員会の要請は「過剰反応」と考える。ただそれだけではないことも気付くべきだ。過剰反応かもしれないが、仮に監督下にある小中学校の児童・生徒が、修学旅行に行き、新型インフルエンザにかかった場合の、管理責任の追及をかわす意図があるということだ。この意図は、決して児童・生徒に対する教育的配慮から生じたものなどではなく、徳島県教育委員会の管理責任を回避する目的のみでなされたものなのである。

現場には、モンスターピアレントの問題も深刻だ。修学旅行先で新型インフルエンザにかかりでもすれば、モンスター性を発揮する親は最近、数が多くなってきているのだ。教員も、それならば、と思い、問題が大きくなる前に修学旅行を辞めてしまおうと思ってしまうのもうなづける。

教育を行うためには、教育の質を高めるためには、教員の資質は非常に重要であるし、それ以上に教員の教育意欲は重要である。意欲のうせた教員は、例えどんなに優秀であってもだめ教員である。まあ当然のこととして、資質のない教員はもともとだめ教員なのだが・・・・。

その教員の意欲を削ぐことばかりしているのが、教育委員会という組織である。管理責任を負わないようにするためには、危険性があれば問答無用で中止する。管理責任を負わないために、教員にさまざまなことの報告書の作成を命じる。事実、小中学校の教員の大半の仕事は、現在、教育委員会に提出する書類作成に費やされてしまっているのだ。提出された報告書類は誰に読まれることなく、倉庫の中につまれていくだけなのに・・・・・。児童・生徒と向き合う余裕のなくなった教員に、質の高い教育を期待する方が酷である。

実例は数多くある。底辺大学・三流大学といわれる教育機関モドキを見ればよい。大学は教育委員会の管轄にないため、好き勝手が行われている。特に経営者の利益優先の方針がそうした大学の教育を大きく落としている。質の低い教員。やる気のない教員。形ばかりの施設。教育をするためではなく、お金を集めるためだけの組織と化してしまっているのだ。

質の低い教員の実例。筆者が知っている実例としての教員は、若い教員だった。底辺大学といわれるその大学の卒業生で、大学院に進学し、そのままその大学の教員に採用された者だった。理系科目を担当することになったようだが、その教員の学力は、筆者が知る限り、普通にイメージする大学生低学年と同等に思えた。国立大学(地方国立大学にしても)には入学できないレベルの学力だ。にもかかわらず、大学で教鞭をとっている。その教員、講義の中で何を教えているかというと、講義科目の内容ではない。雑談と称して、アイドルの話や、お笑いタレントの話ばかりしているという。時にはお笑いタレントの真似までするので、学生からの面白い愉快な先生との評価をもらっている。ただこの教員、他大学で非常勤講師で呼ばれることはまずないだろう。いかんせん、能力がなさ過ぎる。当然、この教員の講義を受けた学生には、講義を受けた学生に期待されている新たな知識や技能は身についていない。別のまともな教員がその尻を拭わなければならない。

このような状態になれば、教育機関としての機能はないに等しい。小中学校においても同じだ。教員を管理する発想からでは、よい教育など実施することは出来ないのだ。

日本の教育は、教育委員会がダメにしたのだ。保守系の方々は、日教組が日本の教育をダメにしたというが、それは責任回避に過ぎない。
まあ、日本の保守系の方々は、今の内閣総理大臣を筆頭にまともに責任を取ろうとしない方ばかりなので、そうなるのだろうが・・・。悲しい現実でもある。

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相互リンクについて

相互リンクを張りたいという方からのコメントが見れらるようになった。

ある意味では嬉しいことなのだろう。ただこのブログは、読んだことのある人であればお分かりのように、筆者(ケケロ)が思いつくままに、勝手気ままに書き連ねているものに過ぎない。だから自己紹介もしていないし、する気も全くない。また、このブログの文章に関する一切の責任を負うつもりもない。ただ当然のこととして、法律や通常の人が持つ常識などに反する行為はしないように努めている。

したがって、こちらからリンクを張ったりすることもなければ、筆者の正体を明かしかねないものは極力書かないようにしている。

あくまでもこのブログは、筆者の個人的趣味の範囲に過ぎず、他人に見せることを基本的には想定したものではない、ということをお断りしておく。だから、相互リンクをこちらから張るつもりはないということをお知らせしたい。

(ここまで書いてみると、なんとなく偉そうな文章になってしまっていると感じた。筆者もお調子者のバカですよね!)

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小沢民主党代表辞任をめぐる動きについて

小沢一郎民主党代表が、民主党代表を辞任することになった。

現在の政治情勢、特に4ヶ月以内に実施される総選挙をにらんだ場合、小沢氏が民主党代表にとどまれば、民主党に対する反発・反感から民主党の総選挙勝利が危うくなる可能性が高いと思われる。それゆえの辞任に違いなかろう。あくまでも政局のための辞任であり、政策を実行するためのものではないという批判は、決して的外れなものとはいえないだろう。

ただ、現行の衆議院での自民党・公明党の議席数を考慮すれば、いくら民主党が補正予算に反対しようが、再議決によって自民党案が通ってしまうという現実もあり、民主党代表としては、次期総選挙で勝利することを優先せざるをえなかったとも言える。民主党が自党の政策を実施するためには少なくとも、与党議員が衆議院の3分の2以上の議席を有しているという現在の状況を変えなければならないのだ。

こうした政局的観測以外に、小沢代表の辞任は、官僚機構にとっては最も都合のよいものであるということを忘れてはならない。週刊誌などで書かれているように、小沢代表が内閣総理大臣になれば、これまでの小沢代表の主張から、大規模の行政改革が実施されることは容易に想像がつく。少なくとも、麻生首相のように官僚の言いなりに放ってくれない。官僚にとって都合の悪い人物が内閣総理大臣になるよりは、たとえ検察批判が一時的に巻き起ころうと、官僚にとっての「危険人物」を政治的に葬り去ろうとしたという事実を、国民は決して忘れてはならない。

また、小沢代表辞任に関する政府与党のコメントは、注意深く聞いておく必要がある。あくまでも彼らは、正論を言うフリをして、自民党に有利になるようにしか発言していない。「他党の人事についてコメントしない」という麻生首相にしても、仮にコメントすれば、ご自身が内閣総理大臣になっている政治的根拠の薄さを逆に批判されることになりかねないからこそのコメントだと考えれば納得できる。重箱の隅を突くような細事に注意を向けるのではなく、政治動向の基本的な流れに注意を向けるべきだろう。さもなければ、日本の政治は、一部の官僚によって滅茶苦茶にされてしまうことになる。日本の将来は暗いものとしないためにも、声を上げる時が来ているように思う。

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2009年5月11日 (月)

行政の機構的疲弊と行き詰まり

すでに1ヶ月を過ぎようとしている事件がある。小沢民主党代表の第一公設秘書の大久保隆規氏が政治資金規正法違反の容疑で逮捕された事件である。秘書が逮捕された当時、小沢代表の事情聴取や逮捕もあるかのような報道がなされ、また自民党の二階経産大臣にも累が及ぶような報道がされていた。あの騒動から1ヶ月。騒動そのものは沈静化したかのようになっているが、あの事件からもっと深刻な問題が日本の社会を蝕んでいることが、徐々に顕在化しつつある。

日本社会を蝕む深刻な問題の一つは、検察庁の独善化だ。検察庁は、日本で唯一、国民(個人)を起訴することの出来る権力を付与されている機関である。法律には、悲しいかな、書かれていないことが多い。また条文化されている項目であっても、その具体的なものまでは明文化されていないので、起訴する権限を持つ機関、つまり検察が、憲法や立法の精神などを総合的に判断して、容疑のある人物の行為が起訴に値するかどうかを決定することになっている。検察の判断は、別の見方をすれば、法律の不備を補う重要な役割を担うものなのである。

その判断を、検察官が恣意的に運用すればどうなるか。本来であれば、罪を問うことが必要でないものまで罪を問うことになり、また罪を償わせる必要のある者を放免してしまうことになってしまう。社会の正義は実現されないことになる。

裁判所の判断が重要なのだ、と主張する人もいるだろう。筆者もそう思う。ただし、現行の裁判所の役割は、国民の多くが期待しているようなものではなく、日本を蝕む第二の問題(後述)とともに、検察との共生関係が生まれ、本来の法原則を無視した判決が頻出されている。例えば、高知での白バイ事件などは、その端的な例である。白バイとスクールバスとが衝突し、白バイ隊員が死亡した事件は、スクールバスの運転手の過失(業務上過失致死)によるものであるとの判決が確定している。しかし、真実はそうではなく、白バイ隊員の「暴走」が事故の原因であるとの証拠もある。裁判所は、最高裁までもが、一般的な感覚では証拠採用すべきものを無視し、仲間の白バイ隊員の証言を信用している。真実は何か、を探求しようとする姿勢は、高知白バイ事件には一切見られない。

小沢民主党代表の秘書の逮捕は、報道されたとおりにはならず、現在に至るまで、政治資金規正法違反容疑のみである。これまでであれば、修正申告した時点で、すべての処理が終わっていた事件であろうし、またこの事件そのものもかなり「筋の悪い」事件でもある。にもかかわらず、検察のメンツを保つため、あるいは検察の勇み足や思い違いを隠すために、検察は秘書を起訴している。検察が本来果たすべき役割や任務は、社会の正義を守ることである。その役割や任務から大きく離れ、逸脱し、かつて戦前に日本軍が暴走したような暴走ブリを見せ始めている。哀れ、と思うと同時に、危険だ、と思う。

日本社会を蝕む深刻な問題の第二は、マスコミの機能不全状況だ。マスコミは第三の権力と称される。それは、マスコミが権力の行為を監視し、国民に知らせ、権力の乱用を防止する役割を期待されているからである。しかしながら、現在のマスコミは、特に小沢氏秘書の逮捕をめぐるマスコミの報道は、検察の腰巾着のように、検察サイドの情報のみを垂れ流しているに過ぎない。NHKなどは、検察サイドの情報リークを鵜呑みにして、事実と反すること、つまり秘書が容疑を認めたとする虚偽の報道すらしてしまった。(今までのところ、NHKからの謝罪は聞いたことがない)。

現在のマスコミは、第三の権力どころか、「権力の犬」と化しているかのようだ。(この表現は、実のところ嫌いだ。犬に申し訳ないと思うからだ) 権力を監視するどころか、権力が権力を乱用することを賞賛している。戦前の大政翼賛会ではないのだから、賞賛ではなく、監視すべきなのに・・・・。マスコミのマスコミとしての自尊心はどこにいったのだろうか。

上記の二つ以外に、問題は多い。このようなブログで書ききれるはずもない。備忘録として記したに過ぎない。ただいつも思う。あ~~~あ!、と。

日本の行政機構は、組織的かつ構造的疲労が拡がり、修正できないところまで達したかのようだ。行き詰まり感は深刻になっている。日本という国家は、一部の連中だけのものではない、ということを、そうした連中に思い知らせることの出来る方法は、ただ一つ。国民の意思表示しかないのだ。具体的には選挙だ。長くとも、後、4ヶ月弱。選挙で日本という国の行く末が決まるのだ。

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2009年5月 5日 (火)

麻生政権による経済政策の無責任さ

100年に一度の不景気ということを名目に、麻生政権の無責任な施策があまりに目に付く。後顧に憂いが募る一方だ。

経済情勢が悪いとき、ある意味でのバラマキ政策は正解である。不況時には資金の流れが停滞しやすいので、資金の流れを潤滑にし、経済活動を刺激しなければならない。

ただ、バラマキ政策に何らかの政治的意図が入り込んだ場合、経済活動の刺激にならない場合もある。今回のエコカーに対する補助制度はまさにその典型だろう。自動車産業は確かに裾野が広い。販売不振に陥った自動車産業が活発化すれば、それだけ雇用の創出につながるとの主張には、一見すると納得しそうになる。しかし注意が必要だ。

日本の自動車産業は、補助政策を執らなければならないほどに販売不振に陥ってたのだろうか。まずこの点の疑問が湧いてくる。次に、雇用創出といっても、現在のように派遣労働が安価で安易な労働力として利用されている状況では、中長期的に安定した雇用の創出とは言えないのではないか、という疑問だ。労働者の権利がここ10~20年の間に急速に縮小されてきている事実を無視して、企業サイドに有利な補助制度を導入することは、あまりに不公平とは感じないのだろうか。

またもう少し視野を広げると、自動車産業よりもより深刻な不況に陥っている業種はないのだろうか。経済界で強い発言権を持つ自動車産業や、家電製造業などを保護する政策(エコポイント制度)は、もっともらしい理由をつけてはいるが、現在の経済情勢の中では適正な経済政策といえるのだろうか。

15兆円に上る経済政策の財源はどこから求めるのか。自民党は民主党などの経済政策を批判する際にはいつも、財源が不明確であるとの批判を浴びせ続けている。ところが、今回の補正予算をはじめとする経済政策の財源は、大方の予想はつけられるものの、実のところ不明確なままだ。将来の政権は、今のツケを廻され、消費税の増税に踏み切らなければならなくなるだろう。

これまでの自民党政治の根本は、まさに放漫体質そのものだ。農民票が欲しいために食管制度を長らく維持していたし、土建業の票ほしさに公共事業を非経済的なものにしてきた。つまり、高コスト体質のままで放任してきたのだ。それが今の日本社会の競争力の低下をもたらしている。日本農業の国際市場での競争力のなさは、日本の国土の狭さや経済発展度などが原因なのではなく、自民党の集票マシンとするための農業政策や公共事業にその原因があるのだ。

麻生首相の経済政策は、まさにこれまでの自民党政治の継続の中にある。麻生政権は、どんなに長くとも9月までだろうが、日本はその後も続くのである。自己の保身だけにしか視野にない人物が政治の責任者としてとどまることは、日本の国益を毀損するものであると確信している。

小沢民主党代表も同じ穴の狢であるということは分かってはいるのだが・・・・・。選択肢がなさ過ぎる。

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2009年5月 3日 (日)

企業の社会的責任

最近、あたかも企業は社会的責任を果たしているかのような報道が多い。本当にそうなのだろうか。

任天堂がヨーロッパでカルテル行為を行い、テレビゲーム機の価格を不当に吊り上げたとして、制裁金として約155億円の支払いを命じられた。この裁判の中で、任天堂は、「指摘された商慣行は98年に改善した」として、カルテル行為を行ったこと事態は認めている。

つまり1998年までは、不当なカルテル行為を行っていたということだ。当然、日本においてもだ。ヨーロッパではその行為が指摘され、制裁金を課せられようとしているのに、さてさて、日本ではどうなのだろうか。任天堂に対する調査は行われたのだろうか。

昔のアメリカ大統領が「軍産複合体」という言葉を用いて、軍隊と企業との密接な関係を批判したことがあるが、今の日本は、まさに「官民複合体」とでも呼ぶべき馴れ合い体質にどっぷりつかっている。

故・橋本龍太郎元首相が関与したとして捜査された日歯連の政治献金疑惑は、橋本元首相の「忘れた」という証言のみで不起訴になり、まるで身代わりのように元官房長官だけが逮捕・起訴されたという事件があった。この事件、疑問だらけだ。起訴された元官房長官は無罪を訴え続けているようだが、だとすれば、橋本元首相が関わったすべての真実と明らかにすればよい。一方、検察もなぜ、橋本元首相に対して不起訴にしたのか、その理由を開示すべきだろう。

多くの国民、というか通常の感覚を持った人は、あの事件を検察と政治家の癒着と見ているのだろう。取り締まる権力を与えられた検察が、不正を行った人物を合理的かつ正統な理由もなく取り締まらないということは、いかにその権力の行使が不公正であるかを物語っている。「まあそのくらいは」という馴れ合いが、積もり積もって、何事も正当に行えないようになっているのだろう。

権力が関わる事件は、それでもまだマスコミが報道するが、広告を出してくれる企業の犯罪には、マスコミは及び腰になるし、それほど関心も寄せない。任天堂の行ったはずの犯罪行為も、ヨーロッパでは摘発され、日本では摘発されない。この事実は、何か不正の腐敗臭をかもし出している。

推測で調査もしていないが、企業の法律顧問などに、元検察官などが就いているとすれば、問題はより深刻なものになっているといえよう。

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