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2009年4月

2009年4月30日 (木)

「体罰」とモンスターピアレント

学校教育の中で体罰が有効でないことは明らかである。基本的に暴力からなんら生産的なものは生み出さず、かえって怨嗟・憎悪・憎しみなど教育的には負の効果しか持たないものしか生み出さないからだ。

ただし、肉体的な強制力が教育的効果を持つこともある。それは悪いことをしていると気が付きもしない子どもに、今自分のしていることは悪いことなのだぞ、と気付かせるために用いる強制力である。一つの例え話。子どもが電気のコンセントに金属製のはさみを入れて遊ぼうとしているとしよう。いろいろな親がいるだろうが、通常の感覚を持つ親であれば、まず子どもからはさみを取り上げ、危険なことだと諭し、理解させようとするだろう。仮にその子どもが幼く、親の言うことを理解できないようだったらどうするか。はさみを取り上げた後、「こんなことをしてはダメよ」と言いながら、手をパチリと叩いたりするだろう。このパチリは紛れもない強制力の行使なのだ。

強制力がすべてにわたってよいものではない。通常、体罰と呼ばれるような強制力は教育現場から排除されるべきである。ただ、上記のように教育的効果を持つ強制力まで排除することは、やりすぎだろう。体罰という強制力と、教育現場でも許容されるべき強制力とは峻別しておく必要がある。

先日、最高裁判所で教育現場における強制力の行使についての判断が下された。悪ふざけが過ぎる児童に厳しく接した教員の行為が、「体罰」に当たり、損害賠償の対象になるかどうかの判断であった。最高裁判所は、「やや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても,本件行為は,その目的,態様,継続時間等から判断して,教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」いとして、親から求められていた損害賠償請求を棄却した。

当然だ。教育を行うとき、教員と児童・生徒・学生が対等であるはずがない。対等な関係を持つものの間には、何らかの強制力を必要とする教育そのものが存在しないのだ。親が子どもの勉強を見ているときを思い出せばよい。親の注意に対して、子どもが平気で口ごたえをするものだから、親も感情的になり、思わず叱ってしまい、勉強を教えるどころではなくなってしまったという経験を持つ人は多いだろう。親と子どもは、その親密さからどうしてもその関係は対等に近いものになってしまうからだ。

筆者は体罰を容認する気は一切ない。しかし教育現場には、指導に従わない児童・生徒・学生に対して、何らかの強制力が存在しない限り、指導・教育などは出来ないのだ。適切な範囲での強制力の行使は、今回の最高裁判決が示したとおり、容認されるべきものとすべきでもある。

ただ思う。判決にある児童の親はどういう気なのだろうか。判決文、しかも最高裁判所の判決文しか読んでいないので、詳細な事実関係は不明だが、この事例、筆者の常識だと子どもの悪ふざけが過ぎている。小学校2年生と言えども、ひどすぎる。平成14年(2002年)に小学校2年生なのだから、今(2009年)は中学3年生。どのような生徒になっているのか見てみたいと思う。この教員の指導がよいのかは分からないが、普通の生徒になっていてほしいと思う。親には期待できないので! こういう親を、モンスターピアレントと呼ぶのだ。

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2009年4月28日 (火)

警察の言い訳は?

警察は法律が定めていることを拡大解釈し、都合の良いように捻じ曲げて解釈している。

草なぎさんの公然わいせつ容疑での逮捕、小沢民主党代表の秘書の逮捕など、今、批判が高まっていることだけではない。痴漢事件での被害者の一方的供述にすべてを依拠する逮捕や立件、志布志事件に見られる違法操作、高知白バイ事件や松山での白バイトの衝突事故などの身贔屓の捜査(違法操作)など、枚挙に暇がない。しかもその責任者はほとんど処罰されていない。厳重注意処分にすらなっていないのだ。

草なぎさんの事件では、家宅捜索をしたのは薬物を疑ったからだとの報道があるが、もしその報道が本当であれば、草なぎさんは「別件逮捕」されたということになる。「別件逮捕」は日本では、法律的には禁止されていることだ。警察が都合のよいように運用を歪曲して、日常的に使っている手法ではあるが、本来であれば違法なのだ。

法を取り締まるべき立場の人物が、組織が、法を逸脱し、違法行為を行った場合、処罰は通常以上に厳しくすべきだというのが、世間一般の「常識」である。しかし実際は、その逆であり、全く処罰されないケースが圧倒的に多い。

是非、権限を持つ人物・組織が違法行為を行った場合には、厳しく罰するという立法措置を取るべきだ。そうでない限り、常識に反した行為が繰り返され、社会の腐敗は進んでしまうことになる。

和歌山カレー事件の捜査に当たった元捜査官が、最高裁判決を機に、テレビで捜査の状況を説明していた。それを見て、「この人も、見込み捜査をして痛んだ」と確信してしまった。本来であれば、元捜査官は、被告(今は死刑囚?)の犯罪事実を立証するためにどのような手法を客観的に用いたのかを説明すべきであるのに、自慢気に、被告が容疑事実を隠しているのに、それを暴くことに専念したという。結論ありきであり、客観的捜査の積み上げによって容疑者を特定したとは到底思えない説明をしていた。

その番組を見るまで、被告が真犯人だと思っていたが、元捜査官(しかも県警捜査課長)の説明を聞いて、あの事件は冤罪かもしれないと思い始めた。

でも警察は、真実を認めてもらえてよかったというのだろう。この場合の真実は、警察が作り出した「真実」以外の何者でもないことは注意しておく必要がある。

警察も都合のいい言い訳ばかりするようになった。子どもを叱る時、「そんな悪いことばかりしていると、警察官になってしまうよ」と言わなければならない時代になりつつあるような気がして、怖い。

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2009年4月27日 (月)

泥酔と法的責任:草なぎさん逮捕事案

酒の効用

酒に酔っ払うことはよくあることだろう。仕事帰りに一杯引っ掛けると言う人は多い。また帰宅しての晩酌が楽しみだという人も多い。多くの人が、お酒を楽しんでいる。時に飲みすぎ、普通であれば問題視されるようなことをする人もよく見かけるが、ほとんどの場合、しらふに戻ってから「ごめん」と謝罪し、問題は解決してしまう。

筆者は、お酒を飲むことは出来るが、酒というものが嫌いなので、ほとんど飲むことはない。居酒屋のタバコの煙がまず大嫌い。不思議なほど、お酒を呑む人はタバコも吸う。だから酒席に行くことはまずない。自宅でも、お酒が嫌いなので飲むことはめったにない。酔っ払いを見かけると「無様だ」とさえ思う。

ただそういう筆者であっても、お酒の効用を無視はしない。人はそれぞれ。お酒が嫌いな人がいても、好きな人がいても良いと思う。(ただ酒を無理強いする奴は大嫌い) 今のようなストレスがたまりやすい日本の社会では、お酒を飲むのも、ストレスを発散する方法の一つだと思う。

泥酔の問題

酒は百薬の長とも言われる。適度な飲酒は、健康にとっても良いのだとも言われることが多い。時に「適度な飲酒」ではなく、「飲みすぎ」た状態に至ることがあるが、そのときが問題だ。

最近では、飲酒をした後の自動車の運転は厳しく罰せられるようになった。飲酒運転が後を絶たず、飲酒による事故での死亡者が無くならないのだから当然である。飲酒して運転すれば、正常な判断が出来ず、車を凶器に変えてしまうから、厳しく罰せられるのだ。

しかし飲酒して外で騒ぐことはどうだろうか。確かに、廻りの住民には迷惑だ。静かに寝ているところに大声で騒がれるのだから、「うるさい」と思うのは当然だ。出張などに行くと、飲兵衛の同僚が大きな声で騒ぐことがある。ホトホト、呆れてしまうが、でも、法的責任を問うようなことはしない。ほとんどの人が、酔っ払いが騒ぐことを迷惑だとは思っても、それで逮捕して欲しいとまでは思わない。

SMAPの草なぎさんが泥酔して裸になり騒いだということで、公然わいせつの容疑で逮捕された。なるほど、ほめられた行為ではない。反省すべきことは反省すべきだろう。報道では、木村拓哉さんから「剛は飲み過ぎだ」と言われていたようなので、草なぎさんには強く反省して欲しいとは思う。草なぎさんは確かに飲みすぎている。

しかし同時に、草なぎさんを逮捕した警察もやり過ぎている。警察官に付与されている逮捕権を乱用しているとしか思えない。警視庁幹部が「正当なこと」だと言っていたが、どのような容疑で、容疑者がどのような行為をしたからなのか、など不明なことが多い。薬物を疑ったとの報道もある。家宅捜索が行われたことからもその容疑があったことは事実なのだろうが、どのような事実と証拠を持って、薬物を疑ったのか。警察官の思い込みで家宅捜索をしたというのであれば、それは警察官の違法行為となる。

草なぎさんの逮捕劇は、警察に対する深い猜疑心を生み出した。民主党代表の小沢氏の秘書が逮捕された事案では、まだ小沢議員自身が権力者でもあるので、反論する機会があったが、草なぎさんの事案では、国民の誰もが、警察官の思い込みで逮捕・家宅捜索までされるのだという事実が明らかになった。権力の乱用は、一部のものに対してだけでなく、国民すべてに及ぶ可能性が高くなっていると考え直すべきだと思い始めた。

警察に対する不信感は、日増しに強まる。和歌山カレー事件も、実は警察による捏造ではないかとも思い始めた。志布志事件、高知白バイ事件、御殿場事件、富山痴漢冤罪事件、などなど。警察官の思い込みによる捜査による冤罪事件は、後を絶たずに続いている。同時に、冤罪事件を引き起こした警察官には、多くの場合、法的責任を問われていないという事実も見逃してはならない。メンツという個人的理由を、「警察のメンツ」と拡大視して冤罪を引き起こす「犯罪者の」警察官。違法行為には、厳しく接するべきであり、それは例え、警察官であっても例外ではないはずだ。否、警察官だからこそ、権力を持つ警察官だからこそ、より厳しく罰せられなければならないのだ。

草なぎさんの事件の報に接した時、驚いた。事件が一段落した今、警察の厚顔無恥な対応に呆れている。警察が腐敗したとき、社会の正義は実現しなくなると気付くべきだろう。厳しい監視の目を持ち続けるべきだ。

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「漢字検定」と入試

漢字検定に対する批判が高まり、それに伴い、漢字検定を入試に利用していた大学の中に、漢字検定を入試の判断材料から外すなどの措置が取られている。今の議論は、漢字検定の問題に集約されてしまっているが、入試制度の抱える問題という視点から議論をしなおす必要があるのだろう。

まず大学が、漢字検定や英語検定などの検定合格を入試制度に導入した目的を改めて検討する必要がある。大学が検定を入試制度に反映させようという根本的理由は、入学者の確保にある。英語検定や漢字検定など、それなりに難しい検定を受け、1級なり2級なりに合格する者であれば、「それなりの勉強しているのだから合格させよう」という思惑がすべてである。質の良い学生を確保するなどの理由は、後からつけた理由であり、本音は受験生確保、入学者確保に過ぎない。

本音を公表すれば、マスコミなどからたたかれるかもしれないし、何よりも根拠なき入試制度を文部科学省が認めるはずもない。そこで、文部科学省の何らかのお墨付きを得ている検定制度を利用して、受験生を確保しようとした。

受験生にしてみれば、受験勉強をする必要もなく、「それなり」の勉強で合格できる検定試験に合格し、早々と入学する大学を決めてしまえば、その後の高校生活が楽になると思う。受験生にしても、彼・彼女らを指導する高校の教諭にしても、楽になる入試制度となった。

ところが、漢字検定の「正当性」にクレームをつける連中が出てきた。大学が最も恐れる文部科学省だ。文部科学省が漢字検定に与えていたお墨付きも与えなくするという。とすれば、漢字検定という隠れ蓑を使用するのが難しくなったと大学経営者が考えても無理なことではない。一気に、大学の入試制度から漢字検定をはずそうという動きが加速していくことになった。

漢字検定の問題は、ここで改めて触れるまでもない。前理事長および前副理事長が私服を肥やし続けてきたその程度が余りにひどく、しかもそこに文部科学省のお役人様が一人も関与できなかったために、文部科学省は法律の建前論から漢字検定協会に対して行政指導を行った。ただこれだけのことではある。

入試制度と漢字検定との関係には、もっとも深刻な問題は、「平等と公平さ」を必要とする入試制度が、学生確保という大学の経営的利益によって、安易に捻じ曲げられているということである。繰り返しになるが、1/2+1/3= という計算を、平気に2/5と答える学生に、大学という高等教育を受けるために最低限必要な基礎的教養(学力)が欠けていることは明らかである。そうした基礎的教養にかける学生が大学生活を送ることは、その学生にとっても、その学生を教育する大学にとっても、そして大学という最もカネのかかる制度を税金を支払って維持しようとする国民にとっても、不幸なことなのである。

「漢字がかなり出来れば、その他の分野の教養もあるはずだ」という推定は、大学の都合の良い思い込みに過ぎない。多くの事例は、「漢字は出来ても、その他の教養は全くない」というのが現実なのである。安易に問題を特定するのではなく、根本的に見直し、改めていく必要がある。

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2009年4月24日 (金)

草なぎさん逮捕から見える問題

タレントの草なぎ剛さんが公然わいせつの容疑で逮捕された。この事件、草なぎさんの酒癖の悪さは強く反省を求めることではあるが、それ以上に、日本の社会が抱える深刻な問題を露呈させてしまっている。

第一は、警察による逮捕という強権力行使に関わる不透明さである。強権力行使の恣意的運用の問題だ。なるほど公園で裸になって大声を上げている人物に全く非がないとは言わないし言えない。しかし通常であれば、逮捕という強権力の行使ではなく、保護という措置を取るべきである。

極度の泥酔状態であったことが推測される今回の事件で、草なぎさんに法的責任を問うことはあまりに酷である。多分、警察官が駆けつけたときに、草なぎさんの発言や行動に、警察官が怒りを感じ、その怒りのままに現行犯逮捕という措置を取ったものと思われる。通常、泥酔者には保護措置を取るのであり、逮捕という強権的措置を取ることはありえない。今回の事件はあまりに異例である。警察官による逮捕という強権力行使に、かなりの「恣意的な」ものを感じ、強権力行使の運用に不平等と不公正を感じる。

小沢民主党代表の秘書の逮捕の際も、「なぜ、民主党議員の秘書だけが・・・?」という強い疑惑を感じた。同じような疑惑、つまり公権力の行使に際し、捜査当局の強い恣意的運用を感じさせる。強権力を行使するものが、その運用を恣意的にしてしまえば、それは「乱用」と呼ぶものとなる。権力を乱用することは、民主主義を標榜する国家では許してはならない大罪なのだ。

第二の問題は、草なぎさんが関わる宣伝活動をしていた企業・政府の反応に起因する。あまりに過剰に反応しすぎている。潔癖さを求める余り、少しの過ちも許そうとはしない窮屈な社会になっている。

企業が広告に起用するタレントに、良好なイメージを維持することを求めることは、当然である。今回の事件で草なぎさんのイメージは悪化するであろうから、彼がこれまで持ってきたイメージを利用した宣伝が出来なくなるのだから。政府にしてもその点では同じだ。地デジ普及のメイン・キャラクターに草なぎさんは起用されていたのだから、彼のポスターを撤去するということは、プロとしてタレントをしている草なぎさんにしてみれば致し方ないことである。

しかし、だからといって個人攻撃をするのは「過剰な反応」である。鳩山総務大臣は草なぎさんのことを「最低の人間」とまで罵倒した。その罵倒は、テレビニュースなどを通じて、全国に報道されている。草なぎさんの名誉は著しく木津つけられていることは明らかだ。今日、鳩山大臣は「発言を撤回する」と発言したようだが、これだけで鳩山大臣の責任は果たされたのだろうか。鳩山大臣は彼個人の名誉を既存されたと考える記事に対して、損売賠償裁判を起こしている。名誉毀損がどれだけ個人を傷つけるかご存知なのだから、ご自分が既存してしまった草なぎさんの名誉に対して、それ相当の賠償をなさるべきだろう。

鳩山総務大臣に限らず、余りに騒ぎすぎている。過剰な反応をしている。警察は単なる酔っ払いの不祥事に家宅捜索までしたという。警察官の中に草なぎさんのファンがいて、草なぎさんの自宅を見てみたいから、家宅捜索をしたのではないか、と疑いたくなる。

過剰な反応にまともな取材は行われたない。ジャーナリストとしての矜持を持って、問題の本質に迫る取材をして欲しい。警察は、警察としての活動になんら問題はなかったのか検証し、もしあったのであればそれを公開し反省すべきだろう。

今回の事件の問題は、草なぎさんにはそれ相当の反省が必要であるが、一タレントが酔っ払い、裸になって大声を出した、ということに過ぎない。しかしそれに過剰に反応するものが続出してしまっている。この狂走状態が問題なのだ。

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2009年4月23日 (木)

草なぎ剛さん逮捕にみる周りの反応

タレントの草なぎ剛さんが公然わいせつの容疑で逮捕された。驚いた。筆者は個人的に草なぎさんのファンであっただけに驚いた。

逮捕容疑はマスコミの報道で知る限り、酒によって裸になり大声を後援で出していた、というもののようだ。決して褒められた行動ではないし、反省してもらいたいと思う行動ではあるが、酒に酔った上での行動であることや、他人に対して怪我を負わせるなどの反社会的な行動をしているわけではない。酒を好んで飲む人の中には、心当たりのある人もいるようなものでもあるように思う。酒に酔って、お店の看板を叩き壊したり、道行く人に絡んだりする酔っ払いはいるものだ。

逮捕された人物がタレントであり、しかも有名なタレントであったために、騒ぎが大きくなっているが、逮捕容疑自体は、それほど重いものとは思わない。

にもかかわらず、である。イメージを商売の道具としている企業が、草なぎさんを起用したCMを自粛することは仕方ないと思う。しかし総務大臣が、地デジ普及のイメージキャラクターとして草なぎさんを起用した総務省職員を「何でそんなのをイメージキャラクターに選んだんだ」と憤ることには、全く理解できない。これまでの草なぎさんのイメージは、地デジ普及に一役買うと思わせる非常に良いものだった。だからこそ、今回の逮捕を受けて、「イメージとそぐわない」などのコメントがあるのだろう。

鳩山総務大臣は、ご自分だけが正しいと勘違いをしているのではないだろうか。誰もが過ちを犯すことはある。草なぎさんも今回、公の空間で裸になるという過ちを犯したのだが、だからといって、それがそれ以前の草なぎさんのすべてを否定してよいものになるはずがない。ご自分も、「私の友人のアルカイダのメンバーが」と発言し、物議をかもし出したことをお忘れなのではないだろうか。例え言葉足らずであったとしても、アルカイダのメンバーが友人にいると自ら発言した現役閣僚の社会的責任と、酔っ払い裸になってしまったタレントの社会的責任と、どちらか重いとお考えなのだろうか。

草なぎさん逮捕の一報は、非常に残念だった。これからしばらくの間、草なぎさんには嵐が吹き荒れることだろう。ただその嵐に負けることなく、再起されることを心から祈っているし、期待している。

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2009年4月20日 (月)

日立は「嘘つき」? 

日立製の冷蔵庫の広告に虚偽の記載があり、その是正命令が公正取引委員会から出された。日立は、使用してもいないリサイクル材料をさも利用したかのように装っていたとのことで、ほとんど是正勧告など出さない公正取引委員会ですら、無視できなかったようだ。

日立の社長は「組織内の業務連絡がうまくいっていなかったからだ」との言い訳をした。社長は、連絡がうまくいっていなかったから虚偽の広告を出してしまっただけで、日立としては消費者を欺く気など無かったとでも言いたいそぶりだった。通常は、組織内の連絡不徹底も、批判されるべき事柄であり、それが虚偽広告の言い訳になるはずも無い。

漢字検定協会のほうも、退職もしていない理事長に退職金を支払っていたことが判明した。こちらも日立と同様、その組織内では「ふつう」の手続きを、「ふつう」にしていただけだり、何ら問題などありはしないと確信していたのだろう。だが、その組織内では「ふつう」のことだと認識されることであっても、一般社会では「ウソ」や「ごまかし」などと判断されることもあるのだ。

日立は日本を代表する企業の一つである。その組織がこのような状態に陥っていたことに驚愕を禁じえない。このブログでかつて、政治家は「嘘つき」だと書いたことがある。今回は、日立のような企業すら「嘘つきになってしまった」とあえて書きたい。企業はもともと、営利を追求する組織体であることは事実であるが、その利益追求も倫理観を外れてしまえば、将来は知れている。そういう企業はつぶすべきだ。

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公務員の給料は高いのか?

最近、公務員の収入に対する批判が強まっている。多くのボーナスを受け取っているとか、民間と比較した場合、公務員の収入は高いとか、などなど。「100年に一度」といわれる大不況の中、公務員の給料を下げろという主張には、くみしやすい面もあるが、本当にそうした主張に組してもいいのだろうか?

まず公務員の収入は本当に高いのか、という点について。平均年収などを比較すると確かにここ数年の間、民間企業よりも公務員の収入のほうが高くなっている。しかし収入に関しては長期的な視野が必要となる。筆者が若かった時、まだバブル景気の真っ只中にいた。当時、公務員煮の人々は肩身の狭い思いをしていた。民間に就職した連中は、年収1000万円を超えるものも少なくなく、さまざまな出費を「経費」として落としてもいた。年乳はそのまま貯金に廻され、日々の生活費はそのほとんどを会社の「経費」でまかなうものは多かった。不景気になり、会社が社員の日々の生活まで面倒を見ることが無くなったのだろうが、その当時との比較をすると、決して現在の公務員の給料が高いとは思えない。

また公務員の給料が「民間と比較すると高い」という主張には、十分、注意しなければならない点がある。民間の給料の低さを、公務員の給料を低くすることで、合理化・正当化しようとしてはいないのか、ということである。ややもすれば、小泉改革以後、「民間」という言葉があたかも正しいもののように使われている。大阪府の橋下府知事の言葉の中に、よく「民間では考えられない」というフレーズが出てくるが、これなどはその典型である。

民間というのは、公務員以外の職業をさすのだろうが、最近使われている「民間」という言葉には、職業としての企業だけでなく、公務員に対する反発・反感の意味合いが強く反映されている。それはそれでよいのだが、だからといって、それが「正しい」と考えるのは論理の飛躍がある。

民間の収入は近年、急速に下げられてきた。派遣労働・契約労働など、従来、労働者が持っていたさまざまな権利が剥奪され、その収入も下げられてきているのだ。そのため、相対的に公務員の給料が高くなり、それに対して批判の目が向けられたのだ。ただ本当に公務員の収入が高いかといえば、そうではないと思う。公務員の収入がある意味で、平均よりちょっと下くらいでなければならないのだ。にもかかわらず、公務員の収入が高くなっているのは、相対的に民間企業の収入が低く抑えられすぎていることを示しているのだ。

だから、民間の給料が低く抑えられているから、消費に向かう資金が少ないのだ。政府がさまざまな経済政策をうとうとしているが、多分、それらの大半は思うようにはいかないだろう。国民は必要な収入が少なくなっているので、「節約」してしまうし、また将来に対する不安は決してなくなっていないので、仮に剰余が生じれば、それは貯金に廻されてしまう可能性が高いからだ。今の日本政府の施策は、アメリカ政府が双子の赤字を増加させ続けていたときの経済政策を髣髴させる。諸らいの不安は減るどころか、却って増えてしまっている。

現在の日本経済の現状の中では、公務員の給料は一見すると高く見えるようになっている。しかし本当は、公務員の給料をスタンダードとみなし、民間の収入が低すぎると考え、その是正を図る施策をとる必要があるのだ。企業もしくは株主ばかりに、資本が集中するような政策は、破綻を免れない。

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2009年4月17日 (金)

ジャーナリストの取材能力

ジャーナリズムは第三の権力といわれる。ただジャーナリズムは多様な主体によって構成されており、かならずしも単体の実体を持つものでもない。新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などはジャーナリズムを構成する主たるものだろう。最近では、インターネットの発達に伴って、個人によるニュース配信もある。

ではジャーナリズムを名乗る者たちの取材能力はどうだろうか。最も取材能力があると考えられるのは、新聞社であろう。社によっては数百名もの記者を抱え、組織だって取材活動をしているのだから、取材能力はあるように、通常は考える。

ただ実体は、非常におさびしい限りだ。官公庁への取材は、プライバシー保護や捜査をはじめとするさまざまな理由をつけられ、決して情報は公開されていない。そのため、「大本営発表」に頼ってしまっている。つまり、お役人様の記者会見や個人的取材活動による情報リークに頼った取材に大きく依存してしまっているのだ。情報公開法などの法律が非常に使い辛いように創られているため、そうしたものに依存しなければならない側面は理解しても、あまりにもお役人様に依存しすぎている。換言すれば、お役人様に都合の良い情報しか流さない体質が、形成されてしまっているのだ。

国民の多くはテレビから情報を仕入れようとしている。しかしテレビはその記者の数を見れば一目瞭然であるが、取材能力は新聞社に及ばない。テレビ局の中には、記者の数が数名規模(実際に取材する記者の数という意味で)のものすらある。ラジオ、雑誌に至っては・・・・・・・。語ることがさびしくなる。

ジャーナリストの心意気を感じさせる記者は、会社から嫌われる。ジャーナリストのご意見番のようなフリをして、今ではテレビコメンテイターに収まっているO氏など、権力に抗するフリをしながら、実は権力に媚を売っている浅ましいものも多い。読売新聞社の権力者、渡辺氏と対立して、ジャーナリストとしての心意気を示した故黒田記者は、泣いてるよ、草葉の陰で!

記者クラブというぬるま湯の中で、ジャーナリストとしての心意気を忘れてしまった者たちに、「第三の権力」として権力の監視機能を期待することは酷であるとともに、そうした者たちの権力欲を掻き立ててしまうのかもしれない。

権力は機会があれば、権力を乱用しようとするものである。だからこそ、権力の監視が必要なのだが、監視をするための最も重要な道具にならなければならないジョーナリズムが、この有様では、日本の将来は暗い。

渡辺読売新聞社社主の言動を見るとき、この人がジャーナリストだとは思えない。権力者に媚び、権力者と同一化し、そして裏の権力者としての「院政」すら引こうとする浅ましさを感じることを禁じえない。

どうにかならないもんかね、本当に!

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公益法人の総再点検が必要

公益法人は、営利を目的としない公益に関する事業を、主務官庁の許可を得て行う法人のことである。民法第34条に基づいて設立される社団法人または財団法人や、特別法に基づいて設立される法人、例えば学校法人(私立学校法)、社会福祉法人(社会福祉法)、宗教法人(宗教法人法)、医療法人(医療法)などがある。公益に関する事業を営利を目的にせずに行うので、税制的な優遇措置が取られている。

ここまではある意味当たり前のこと。だがこの制度を悪用しようとする人は多い。

今問題となっている財団法人「日本漢字能力検定協会」の問題は、税制的に優遇されている公益法人の利益を、理事長一族が私物化しているのではないか、ということに端を発している。マスコミは、漢字検定協会の問題を大々的に扱っていて、文部科学省も「公益法人の資産が理事長をはじめとする少数の者に流用されている」ことに強い懸念をもって対処しようとしている。当たり前のことである。問題視すべきである。

ただここで、二つの別の問題が生じていることにも関心を払うべきぁだろう。

第一は、他の公益法人はどうなのだろうか。現在、天下り先として批判の矛先を向けられている団体の多くは、象徴の業務にかかる公益法人である。また、公益法人として税制的な優遇措置を受けている学校法人などの中には、漢字検定協会の大久保理事長一族と同じように、一族で経営を独占し、財務状況をごまかし、公益法人の資産を私物化しているものも、決して少なくない。医療法人による診療報酬のごまかしなど、常態化してしまっているものもある。

第二は、公益法人を設立するためには、主務官庁の許可・認可が必要だという点から生じる問題だ。天下り先の温床となっているだけでなく、国民の財産を食いつぶす不正な官僚の無駄使いの源にもされてしまっている。

公益法人自体の問題と、公益法人を管理する官庁の問題との双方が、公益法人制度をゆがんだものにしている。多くの国民は、それに気がついている。身の回りにそのような事例はごろごろしている。私立学校の不明朗な経理、医療法人の過大な医療報酬請求、さまざまな公益法人へのお役人様の天下り、などなど。例を挙げればきりがない。具体的な組織名や個人名を挙げることすら容易だ。

にもかかわらず、「便利」なものだから、誰も改正しようとはしない。しかしそれが日本の社会を蝕み、崩壊させていく危険性を孕んでいるのだ。今こそ、公益法人を総点検し、本当に税制優遇をするべきかどうか、公益法人としての認可が適切であったのかなどを点検するときなのだろう。

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2009年4月15日 (水)

形だけ整えようとする行政のあり方

行政には大きな役割が期待されるようになっている。かつて、政府の役割は徴税と治安だけだとされた時代は去り、政府には国民生活の細部にわたる活動に何らかの関与が求められるようになっている。いわゆる福祉国家というものだ。

では日本の政府はそうした期待されている役割を担っているといえるのだろうか。夜警国家といわれ、最小限度の機能しか期待されていなかった時代においても、政府には治安という名の秩序維持の機能は求められていた。日本の治安は? なるほど、紛争当事国ほど治安は悪くなっていないが、問題がないわけではない。このブログでも取り上げているように、警察・検察機構の制度的矛盾は隠し通すことが出来ないほどにまで拡大している。まだ多数の警察官は善良なのだろうが、善良でない、サボタージュを好む警察官の割合は増加し続けている。検察は問えば、とても正義の番人にはなりえないようなことをしている。フ~ム????

現在の麻生内閣は、そうした官僚機構を体現しているユニークな政権でもある。形だけを整え、国民にばら撒きさえすれば、不満は納まり、支持率が上がると考えている軽率な首相は、まさに官僚たちの鏡でもある。官僚たちがこぞって麻生政権を守り通そうとしているさまは、官僚組織の特質をあらわにした醜態でもある。

道路を建設するのはなぜか。子どもの教育予算を増額するのはなぜか。予算配分する際の理由付けが明確であれば、今回提出されている補正予算の多くが、単年度であることの説明はつきはしない。考えられる理由はただ一つ。「選挙が近い」からだけだ。

政治家、特に自民党議員と、官僚の無作為によってどれだけ多くの国民の財産が食いつぶされてきたのか。そしてそれがあらわになろうとすると、自民党に変わりうる可能性を持つ民主党代表にその牙を向き始めた。

牙をむいたのは誰か。「証拠があれば起訴する」と言い放った検察幹部(元職も含む)は、森田千葉県知事の政治献金問題をどのように扱うのか。無所属といいながら、自民党支部の支部長をかねていた事実を、どのように考えるのか。権力に牙をむくことは大いに結構だが、その牙は適切に使用しなければ、単なる暴力に過ぎない。

目くらまし戦術がどこまで成功し続けるのか、見ていきたい。小泉構造改革の際も、その詭弁を指摘してきたが、麻生政権やその取り巻き、官僚たちの詭弁にも注目していきたい。

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痴漢裁判に画期的な最高裁判断

冤罪裁判の温床となっていた痴漢裁判に画期的な最高裁判決が出された。これで、痴漢裁判が合理的かつ適切なものとなるように期待したい。

最高裁判決については最高裁の判例検索システムに判決文が掲載されているので、そちらを参照されたい。

判決のポイントは、次の2点だ。
①被害事実などが被害者の一方的な供述により、被告が有効な防御を行うことが困難な場合、裁判所は慎重な審議をしなければならない。
②被害者の供述の正当性は特に慎重に判断する必要性がある。本件の場合、合理的な疑いが残る。

痴漢犯罪は卑劣な犯罪である。このことに反対する人はいない。卑劣な犯罪には当然、それ相当の処罰を行うべきである。ただ、処罰される人物が誰なのかは、慎重に判断されるべきである。犯罪を犯した人物が処罰されるのは当然であるが、被害者の思い込みや、虚偽告訴などでの処罰は、正義に反する。誰が真犯人なのかを、慎重に判断することが裁判所に求められている。

痴漢犯罪に関しては、警察の捜査手法に非常に大きな問題が含まれている。痴漢撲滅そのものの目的はそのとおりだが、被害者の供述に頼りっきりで、一切、客観的な証拠を得ようともしていない。被害者と加害者とされる容疑者の供述の問題点の洗い出しすらしていない。

数年前、甲南大学法学部の学生が、知り合いの女性と共謀して、全く関係のない男性を痴漢犯人として告訴した事件は記憶に新しい。このような示談金目的の虚偽の痴漢告訴は決して少なくはないはずだ。痴漢という犯罪に全く関係のない男性は、この世に多くいるが、その誰もが痴漢犯人にされてしまう危険性が満ち溢れている。例え無実であっても、悪意を持つ女性の虚偽の告発から犯罪者とされてしまう危険性があるのだ。すべての女性がそうであるとはいえないが、そのような女性も少なくないことは、多くの人が経験的に分かっているはずだ。

今回の最高裁判決に対して、女性運動をされている方のコメントなどを読むと、女性はか弱き保護すべき存在であるという妄想に取り付かれているとしか思えない非現実的なコメントが多かった。そうした方に問いたい。冤罪によって生活を壊される男性の権利をどのように考えているのかと。

最高裁まで闘って無罪判決を勝ち取られた教授の方は強い方だ。ただ教授個人の強さのみならず、教授を支えられた夫人、お子様たちもいらっしゃる様子だ。くわえて、防衛庁の管轄する防衛医科大学の教授であったことも、この裁判を闘ってこれた理由であろう。公務員でなければ、多くの場合、起訴された時点で免職させられてしまい、裁判を戦い抜く視力を失ってしまうからだ。裁判中は他の大学への就職など期待できはしない。教授の周りの環境も、今回の画期的な判決を勝ち取ることの出来た理由であろう。

とにもかくにも、名倉教授の無罪判決は、今後の痴漢犯罪とその捜査に大きな影響を与え、冤罪事件の撲滅に向けて大きな一歩となることだろう。

警察の捜査能力と正義を追及する資質に大きな疑問が生じ始めた現在、裁判所だけが最後の砦であった。通常、裁判所は期待を大きく裏切ることが多いのだが、今回はまさに「胸のすく思い」だった。

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2009年4月 9日 (木)

皇室は存続するのか?

天皇・皇后が結婚されて50年がたったらしい。仲睦まじい姿は、政治的な意見を脇に寄せて、微笑ましいことだ。

ただ現在の日本の皇室制度は、将来、存続しうるとは到底思えない。皇室制度に反対している人々は、単に現行の皇室典範の改正に反対すればよい。心から皇室制度を維持したいと思う人々は、皇室典範の改正に取り組まなければならない。でも、政治的には「国体護持」を唱える人々は、皇室典範の改正に反対する。おかしな現象ではある。

現行の皇室典範では、天皇に即位できるのは男性だけだ。皇太子は、皇室の中で3番目に若い男性で、2番目が皇太子の弟の秋篠宮、最も若いのが秋篠宮の息子(長男)である。皇太子の次の世代までは大丈夫といえるだろう。しかしその後は一切、保証がない。かつては側室制度があり、男子が生まれる可能性は高かった。しかし現在のように皇室から側室制度が消滅していると、ただでさえ少子化が最も進んでいるところに、男子の誕生する可能性は少なくなってしまう。簡単な算術的な確率なのに、なぜ、この確率が理解できないのだろうか。

個人的には、皇室制度はあってもよいと思う。現在、存在している制度であるのだから、それを積極的に廃止する理由を見出せないだけなのかもしれないが・・・・・。同時に、無くてもよいかなあ、などと不敬なことも考えることがある。どちらでもよい、という無責任な解答しか今は出せない。その筆者が、皇室典範について、もう少し議論すべきではないかという心配をしてしまうのだから、日本の保守派の人々は楽観主義者なのだろう。御気楽な人々です。

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舞鶴の女子高生殺害事件から:警察の暴走?

舞鶴での女子高校1年生殺害事件で、かねてより容疑者として警察の捜査対象となっていた男性が逮捕された。マスコミから知る情報では、心象として「黒(つまり犯人である)」というものを持ってしまう。一方で、弁護士会は自白の強要がなされる可能性があるために、弁護士会として対応すべく体制を整えようとしているとの報道もある。さて、この事件の犯人は、今回逮捕された男性なのだろうか?

小沢民主党代表の秘書が逮捕された事件でも、検察から検察の捜査に有利な情報が流されたと言われている。NHKが「秘書が容疑を認めた」と報道したが、その報道に対して秘書の弁護士が「そのような事実はない」と反論している。NHKが秘書を犯人にしようとして故意に虚偽の報道をしたとは思えない。検察からのリーク情報を鵜呑みにして、報道しただけだろう。その姿勢も報道機関として問われるべきだろうが、現在の報道機関は、検察や警察からの情報を報道する限り、報道による責任を問われないようになっていることを考えれば、そのような仕組みを作った司法当局(裁判所のみならず、検察も含む)にも責任がある。問われるべき責任は、情報をリークした検察と警察にあるのだ。

舞鶴の事件でも、逮捕された男性にかなり強引な捜査が実施されたにもかかわらず、物証は見つからなかったとされる。それでも逮捕が強行された。現在、男性は別の窃盗事件で服役しているようだが、その事件もかなり強引な捜査が行われたとの印象を与えている。富山での強姦事件での誤認逮捕と服役の事件、志布志事件、高知での白バイ事件など、警察にかかわる不祥事は後を絶たないだけでなく、そうした不祥事に関する反省も一切見られない。

警察も検察も、国家権力行使の象徴的な機関である。現在の法体系は、警察官も検察官も過ちを行わないという前提で構成されているが、それがそもそもの過ちである。多くの警察官と検察官が善良な官吏であるということは事実であるが、中にはそうでないものも多い。そうした人物もいるという前提で、権力を行使する人物が法を逸脱する行為を行った場合、通常以上に厳しい処罰を行う法体系が求められるはずだ。

舞鶴の高校生殺害事件の犯人が逮捕され、処罰されることは、正義にかなうことである。しかし、逮捕され処罰されるべき人物が、今回逮捕された男性であるかどうかは、別の問題だ。警察の思い込みの捜査による犯人の捏造だけは、決して許されるものではない。

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2009年4月 7日 (火)

日本の基本的政策方針は何?

日本政府は、急増する失業者対策として、期間つきではあるが住宅手当の支給を決めようとしている。なぜ?

小泉政権の進めた「構造改革」は「小さな政府」を目指すものであり、市場における調整機能に大きな信頼を寄せ、民間の活力を最大限に活用しようとする政策でもあった。言葉通りに物事が働かないことは事実であり、「構造改革」のさまざまな欠陥が明らかになりつつあるが、現在の衆議院議員は、小泉政権の構造改革を支持するか否かを問うて得た議席配分となっていることを考えれば、政府の基本方針は、前回の選挙のときとは待った熊逆の方向に「ブレて」しまっている。

日本政府は何を基本的な方針にするのだろうか。道路建設に関してもいつの間にか、特定財源の話は消えてしまい、不要な道路が作られようとしている。田舎に片道2車線の道路がなぜ必要なのだろうか。国道ですら片道1車線のところがたくさんあるというのに!官僚の天下り先確保のために道路財源が使用されているからこそ、政策の焦点が道路特定財源から他に移ったとたん、官僚たちは、自らの権益を守ろうとしている。なんて「浅ましい」。

政治家にしても、浅ましい限り。権力の座に座り続けたい首相は、解散すら出来ずにいる。

遅くとも9月までに実施される総選挙では、これからの日本の将来を議論し、日本政府の基本的政策方針を問う選挙にして欲しいものだ。それこそが、政権交代の大きな意義なのだから。

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2009年4月 6日 (月)

建物入り口での喫煙

タバコを吸う人の肩身がいっそう狭くなっている昨今だが、嫌煙者としてどうしても主張したいことがある。それは建物の入り口での喫煙だ。

スーパーやデパート、公共機関の建物は、現在ほぼ禁煙となっている。そのため、建物の入り口に灰皿を設置し、タバコを吸う人に「配慮」している。配慮は配慮として必要であることに異論はないが、なぜ、建物の入り口近くに灰皿を設置するのだろうか。

今ほど嫌煙権が認められてしまうと、喫煙者は灰皿のあるところではタバコを吸ってもよいと思ってします。ある意味、それは当然の行動だ。建物の入り口に灰皿があれば、「そこでタバコを吸ってもよい」という許可と思う人が大半だろうし、なかには「灰皿さえあればタバコを吸う権利がある」と思う人も出てくる。喫煙者の多くは、禁煙スペースの建物内に入る前に「さて、一服」と、タバコを吹かしてしまうだろう。

だが建物の入り口は、喫煙者のみならず、嫌煙者も出入りするのだ。受動喫煙の被害を考えれば、建物の入り口に灰皿を設置することは、嫌煙者に対する「配慮」を欠いていることになる。つまり、建物の管理者は、喫煙者には「配慮」しても、嫌煙者には「配慮しない」ことになってしまっているのだ。

喫煙者の喫煙の権利と、嫌煙者の権利とを調和させる方法はある。それは喫煙スペースを、建物の入り口にするのではなく、入り口から離れたところに、しかも入り口から見えやすい場所に設置することである。入り口に灰皿を置くから、そこで喫煙することになる。少し離れたところに灰皿を設置し、「喫煙スペース」などの表示をすれば、多くの善良な喫煙者はそこで喫煙し、嫌煙者から冷たい視線で見られることなどなくなるのだ。

筆者の経験では、スーパーの入り口で平気でスパスパしている人を見ると、「この人は変な人だ」と思ってしまう。人の出入りの多いところでタバコを吸っているのだから。でも、そこに灰皿があるので、喫煙者は「ここでタバコを吸ってもよい」と思ってしまっているのだ。そうした思い違いを引き起こすのは、喫煙者の責任ではなく、建物の管理者の責任だ。健康増進法や労働安全衛生法などの立法趣旨を勘案すれば、当然のことでもある。

建物の入り口での喫煙をできるだけなくす努力を、建物の管理者はしなければならない。喫煙の責任を喫煙者のみに帰するのは、昨今の事情からあまりに酷だと思う。

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北朝鮮ミサイル発射の狂想曲

北朝鮮がミサイルの実験を人工衛星の発射だとして強行した。日本国内では北朝鮮に対する批判的な言説が飛び交い、北朝鮮に対する強硬姿勢を執るようにと求める意見が大半だった。

ふ~。これだから! 冷静にそして客観的に事実を比較することで、事態を観察してみよう。

まずミサイル技術について。北朝鮮が行ったミサイル実験で立証された技術力は、日本に勝っているのかという問題だ。日本はアメリカとの協力体制の中で、宇宙基地の建設にも参加している。気象観察やテレビ衛星などの人工衛星の打ち上げも多数行い、技術力の高さは証明されている。北朝鮮の初期段階のミサイル実験実施に何をあわてるのだろうか。日本やアメリカだけが、ミサイル発射技術を保有するべきで、北朝鮮はその技術を持ってはならないと考えることの方が、浅はかなのではないだろうか。北朝鮮は、今、世界を相手にけんかを吹っかけているのだから、そのくらいはするだろうと思うべきではないのか。

次に核兵器の問題。確かに北朝鮮のようなパリア・ステイツが核兵器を保有する危険性は無視できない。そのことは確かに存在する。との前提を置いた上で、数年前に北朝鮮が実施した核実験は、技術的には失敗の部類に入るものだった。あのくらいの核兵器であるならば、今の日本の技術力をもし利用すれば、容易に製造できるものだ。日本は核兵器を保有しないという意思を持っているので、開発・製造しないだけである。今、核兵器は貧者の武器と呼ばれるようになっている。それだけに北朝鮮にしてみれば、「核保有国」として扱われることを望むために核武装したのだけれども、それは世界に対する挑発行為であるに過ぎない、ということをさまざまな手段を講じて知らしめるべきであろう。その手段は、禁輸措置などの強硬手段だけでなく、外交交渉などのソフトな手段も同時に行使すべきであろう。

今の北朝鮮に対する日本での報道は、かつて1950年代後半のアメリカで行われたミサイル・ギャップ論争を想起させる。米ソ間のミサイル開発技術に関する論争であるが、実態は無意味なものであった。アメリカの技術的優位はゆるぎないものであったからだ。ただし世論の危機感をあおることで得をした「一部の人々」がいたことも確かだ。軍産複合体などと批判され始めた企業群や、なによりもの当時の民主党の大統領候補だった人は、この論争のあおりを受けて大統領に当選したとも言われている。

日本でも北朝鮮の脅威をイタズラにあおることで、誰かが得をしてはいないのだろうか。そしてその得をする人々が、何かの意図を持ってはいないのだろうか。こうした危機意識を持ち、北朝鮮の問題を考えてみる必要があるように思えてきた。

事実は事実だ。北朝鮮は国家として破綻している。にもかかわらず、国家破綻をきたさないのは、なんらかの政治的意図が働いているのではないか、と考えるべきだろう。北朝鮮が破綻すれば、北朝鮮を吸収合併せざるを得ない(決してしたいわけではないだろう)韓国は、大変な経済的・社会的は負担を強いられることになるだろう。また北朝鮮が破綻すれば、中国は韓国と国境を接することになる。韓国はアメリカとの軍事同盟を結んでいるだけでなく、中国国内に特に国境周辺地域に数多くの「朝鮮族」と呼ばれる同胞がいる。中国国内の二重体制が動揺をきたす原因を作らないとは限らない。

周辺国の思惑は、決して北朝鮮を破綻させることではない。殺さず・殺さずの状態で、このまま北朝鮮を「国家主権の維持」などの理由をつけて存続させることに、利益を持つ国家は多いのだ。日本もその例外ではない。

ミサイル発射の危機感から生じた日本での報道を見て、「あほらし」と思わずにはいられなかった。そこには国民の利益を守るという事実は一切見えてこないのに、あたかも国民の利益を守るかのような言説を用いて、一部の人々や関係諸国の利益を守ろうとする思惑が錯綜しているだけなのに・・・・。ホント、あほらしい。

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2009年4月 4日 (土)

結婚と離婚:陣内・藤原夫妻の破綻

陣内智則さんと藤原紀香さんの芸能人夫婦が離婚した。格差婚などとも言われ、離婚も秒読みかと言われていただけに、ある意味、仕方ないとの受け止め方が大勢を占めていた。筆者は、他人の結婚・離婚について特にコメントする気はないのだが、この離婚については少し言いたいことがある。

陣内・藤原夫婦の離婚が発表された後、夫である陣内氏が一方的に悪いように書かれている。また私は見たことがないが、インターネットの中では藤原女史が一方的に悪いように書かれているものもあるようだ。二人の離婚の原因は、二人だけの問題であり、二人以外の人間には全く関係のないものである。だから、二人の離婚がどのような原因であったかどうかには関心がない。

夫婦二人以外の者が、夫婦の婚姻関係に重大な関係を持っている場合、その夫婦の婚姻を破綻させること、つまり離婚は二人だけの問題にとどまらない。通常、このようなケースはないのだが、特殊な事例も存在する。その典型例は、皇室の方々の婚姻である。仮に皇太子夫妻が離婚するということになれば、それは大きな国内問題となるだろう。そうした意味では、陣内・藤原夫婦の離婚も、離婚できただけ自由なことでもある。

筆者がこの離婚問題にコメントしたいことは二つ。一つは、この離婚劇に、両者の両親がかかわったことについてである。夫婦の間の出来事は、例え親といえども関与できない範疇がある。そこに親が土足で上がりこむようなことは、絶対にすべきではないし、そのようなことをする親がいれば、その子どもは悲劇である。陣内・藤原夫婦の離婚に際し、それぞれの親が話し合いの場に関与していたらしいが、特に藤原女史の母親が深く関与しすぎているように思われる。離婚届を出したのも母親といわれているので、もしそれが本当だとすれば、「バカ親」を通り越した呆れた親である。子どもの私的領域に土足に入り込む親は、バカ親以外の何者でもない。

二つ目は、それぞれに離婚の原因について取りざたされているが、離婚に至る原因を、一方だけが全面的に負うことなどありえない。それぞれにそれぞれの責任があり、離婚の原因を作り出しているのだ。それぞれがそれぞれの立場から、相手を批判するだけでは問題の解決など出来やしない。報道にあるように、陣内氏が浮気をしたことが原因であれば、それを解決しようとしなかった藤原女史の責任はどうなのか、ということも問われるべきなのだ。離婚に至る理由に、一方だけが全面的に悪いはずはない。例え彼が悪いにしても、今の報道姿勢の中に、陣内氏だけを批判する傾向が見られることに、憤りを覚える。何か作為すら感じてしまうのは気のせいだろうか。

結局、芸能人は離婚すら自らの芸(つまり、銭)にしてしまうのだろうか。少し、浅ましい気もする。

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2009年4月 1日 (水)

司法制度に対する危惧と不信

国家権力は近代国家においては三つに分権されている。立法権、行政権、司法権である。日本の具体的な組織としては、それぞれ国会、内閣、裁判所となる。三権(三者)の関係は、国会が制定した法律に基づき、内閣が政治を執り行ったり、法律に違反した国民を処罰するための判断を裁判所に委ねるという基本的構図が存在する。三権はともに独立した存在であり、相互にチェックアンドバランスが図られている。

ここまでは教科書的な説明。この三権の実際の関係は次のようになる。国会と内閣は、日本の場合、議院内閣制をとるためかなり密接な関係を持っている。国会議員によって内閣の過半数は占められているし(憲法規定)、内閣総理大臣は国会における与党の党首であることが一般であるだけに、国会、中でも与党の意見が行政に大きな影響を与えることになっている。

ただし現在のように国家形態が「福祉国家」となり、事務作業量が膨大になっている状況では、国会議員だけで行政を動かすことは不可能である。内閣総理大臣や各省庁の大臣の監督下で、具体的な行政事務を執り行う組織が必要となっている。これが官僚機構と呼ばれるものである。教科書的(理念的)には、官僚機構は国会の定めた法律に基づき行政を執り行うことになるのだが、実際は、組織が自己増殖していて、自らの組織防衛や組織権益を守ろうとする行動も目立つようになっている。

この部分に触れ始めると、膨大な文量になるのでここでは省略するが、行政機構の中の一つの機構である検察庁(法務省管轄下)も基本的な動向は同じようだ。

検察庁のさまざまな問題は、皮肉なことに、検察庁の権益保護と威信の取戻しを画策して動いた民主党の小沢代表の秘書逮捕という事例によって、明らかにされつつある。ある意味、逮捕・起訴という国家権力の最たるものを独占しているこの機構に対して、異議申し立てをするようなジャーナリストもいなかった。否、少なかった。数年前、検察の裏金作りが社会問題されたときにでさえ、時間の経過とともに次第に忘れ去られようとしていた。元検察官の三井環氏(当時は大阪高検公安部長という要職にいた。現在、微罪により収監中)の内部告発も、検察権力の元で封じられてきたのだ。

検察に対する不信は、小沢事件によって再び、以前よりも強く意識され、問題視されつつある。自業自得というべきか。悪いことをすれば、必ず罰せられるものだ、という検察側の決まり文句が、そのまま自分に降りかかっているようだ。

そして、検察だけでなく、司法、つまり裁判所に関してもさまざまな問題が起きていることは余り知られていない。数人の不心得者が起こした事件は新聞を賑わすことがある。裁判官が、部下の女性職員にセクハラ行為を行い、罷免された事件を覚えている人の多いだろう。こうした極端に問題の大きなことをする判事も数は少ないがいる。しかしもっと深刻なのは、世の出来事に疎く、自分で判断することの出来ない判事が誕生しつつあることだ。自分で判断すれば、判事といえども組織の中で働く人間なので、組織に対する不満を蓄積させる。それが時には、最高裁判所事務局に対する批判となって現れる。こういう人間を、世間は良い判事と考えるのだが、最高裁は逆に考え、判事にふさわしくないと考える。本来、判事は、裁判官は、すべてのものから独立した存在であるはずだった。憲法でも保障された権利だ。しかし現実は、人事的な側面からのさまざまな強制が働き始めている。「まともな」人間は、判事を辞め、あるいは辞めさせられて、弁護士となってしまうのだ。

官僚組織の持つ病理が、制度そのものを蝕みつつある。

検察、裁判所という司法権にとって、中枢を占める機構が、組織的疲弊を強めていることは、日本の司法の存立にとって脅威である。法の下での平等が保障されなければ、国民は何を基準にして生活していけばよいのだろうか。法律という具体的な基準があり、その適応が社会通念上大きくそれていない限り、国民は何が悪いのかを判断することが出来る。

日本ではほとんど意識されないが、右手を斜め前に上げて敬礼する行為は、ドイツでは違法行為である。かつてのナチスに対する賛美を禁止する目的で作られた法律があるからである。国が異なれば、その国ごとにそれぞれの法規範が存在するのは当然だ。これは別の視点からすれば、国ごとに規範が異なるということだ。国民にとって判断すべき基準は、国ごとに異なり、その基準を明示することは円滑な市民生活にとって必要なことなのだ。

日本では、その基準が現在、ぶれ始めている。麻生首相の政策方針のように、大きくぶれ始めているのだ。これでは安心できる社会生活を送ることなど出来はしない。今、司法制度について、国民は注意して監視する必要がある、ということを提起したい。

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