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2009年3月

2009年3月31日 (火)

検察は「正義の味方」なの?

明快な勧善懲悪は分かりやすい。水戸黄門などが長く国民から愛されているのも、最後は黄門様が悪党どもを懲らしめてくれるという安心感と予定調和があるからである。ただ現実は、必ずしも勧善懲悪という二項対立の構造に収まるものではない。

小沢民主党代表の秘書が逮捕された件で、検察の捜査が批判にさらされ始めた。当然であろう。小沢代表が、不正な資金を集めているのであれば、それは十分厳しい捜査を行い、事実に基づき、厳正に判断(裁判所による判断)がなされるべきである。この原則に変わりはないが、小沢代表のあまりに強力な政治力に対抗するためか、検察からの情報リークには目に余るものがある。

小沢代表の秘書が、「政治資金収支報告書にうその記載をしたことを認める供述をした」という情報を、この情報は検察のみしか知り得ない情報にあるにもかかわらず、NHKが放送した。大久保秘書の弁護人は、NHKに対して、「公共放送としては慎重を欠い」ているとして抗議したと言う。NHKの放送姿勢に関しても問題があるが、より重要な問題は、ありもしない供述をあたかもしたかのような情報操作を検察がしていることである。弁護士が否定しているのだから、秘書がそのような供述をしているとは考えられない。

検察は、真実を裁判の場で明らかにするとしているが、その前に、検察に都合の良い情報だけはリークしている。都合の悪い情報も含めて、情報を公開するのではなく、あくまでも自己都合(検察だけの都合)による情報開示は、情報操作以外の何者でもない。検察という機関が、法の正義を守るための番人であり、国民を起訴することの出来る国家権力を有する機関だけに、問題は深刻だ。かつての特高警察のように、「国体護持」という大義名分をすべて自分たちに都合の良いように解釈して、反対派すべて逮捕・起訴してしまう過去の国家による犯罪を想起してしまう。

横浜事件に対する裁判所の判断が示されたように、国家権力が暴走してしまえば、国民の利益は無視されてしまうのだ。このブログを記している筆者は、かつてであれば、国家反逆罪で逮捕・拘束・虐待、そして死亡に至る悲惨な目に遭っていることだろう。なにせ、国家権力の最たる機関である検察を批判しているのだから。

国民の多くが、検察は法の番人であり、正義の味方であると考えている国家では、法秩序が安定し、政治的な成熟度も高く、高度に民主主義が実践されている。検察が暴走する国家は、秩序が乱れ、民主主義の実践など期待できもしない。

国家権力の最たる機関だからこそ、検察の活動は、すべての国民が理解し納得できるものでなければならない。で、今の日本の検察はどうだろうか。小沢代表の秘書の逮捕に関わり、国民は検察に対して二つの疑惑を持っている。なぜ、民主党代表の秘書だけなのか。なぜ、政治資金規正法違反という罪に対して従来とは異なる対応をしたのはなぜか。この二つに疑問に焦点が当てられ、検察に対する不信が高まっているが、本当に重要なのは、検察による情報操作が行われているという事実である。

検察は事実に基づき、起訴し、裁判を維持していけばよいのである。元々、権力を有している機関なのだから、個々人に関する情報などをマスコミに漏らし、検察を正義の味方に仕上げるようなことはしてはならないのだ。にもかかわらず、日本の検察はそれをしてしまっている。しかも事実を捻じ曲げてリークしているのだから、始末に終えない。

検察の犯罪は、誰が取り締まるのだろうか。だれが起訴するのだろうか。それとも検察は必ず犯罪を犯さないと菅がているのだろうか。裁判官ですら、部下にセクハラをすれば、弾劾される時代である。もし、検察官が部下にセクハラをしていれば、検察官以外の者が検察官を起訴するような制度があるのだろうか。裁判官を弾劾するのは国会議員である。検察官を起訴するのは、現在の法体系では検察官である。つまり身内の者が起訴し、刑罰を請求することになる。

警察官の不祥事があまり表に出されることなく、しかも通常と比較した場合、軽い刑罰で処理されることが多い。検察と警察では、その重要性が異なり、単純に比較することが出来ないにしても、同じく権力の執行機関という点では同等である。検察官は?、という疑問には、警察に対するものと同じ疑惑を想起してしまう。何らかのチェック機構が必要だ。

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2009年3月30日 (月)

教育の崩壊

医療現場の崩壊が、社会問題となっている。医療制度の崩壊は、厚生労働省を中心とする中央官僚による失政が引き起こしたものである。厚生労働省は、医療制度のみならず年金制度も、財政規律の維持という観点から崩壊させてしまっている。医療制度も年金制度も、この制度に直接関わる人々の不満が噴出してしまっているので、社会的な問題となり、国会の場においても議論されるようになってきた。

ところが、教育制度に関しては、その効果が出るには中長期的な時間がかかるため、現時点において、それほど大きな不満は噴出しておらず、社会問題にもなっていない。しかし教育制度はすでに崩壊しており、その弊害は近年、必ず社会に多くの問題を引き起こすことになるだろう。いや、絶対に問題を引き起こすのである。

教育制度はどのように崩壊してきたのか。まず指摘できるのは、医療制度・年金制度と同じく財政規律の導入である。教育ほどお金のかかるものはない。封建制時代には、すべての国民に教育を受けさせようと模しなかったことがそれを象徴している。教育にはお金がかかるのである。

それを資本主義的な財政規律を導入してきた。それに伴い、現場の教員の発言よりも、教員を「管理」する教育委員会などの発言力が強まってしまった。何か問題が起こると教育委員会は、その問題に対処するという名目で、教育現場に対する管理・監督を強化させてきた。

例を挙げれば、小・中・高校で起こった出来事はすべて、教育委員会への報告が要求されるようになった。報告したところで、膨大な報告書すべてに目を通る職員などいるはずもない。単に形を整えるためだけの報告書なので、教育現場をよくするためのものではない。教員は、日々、膨大な報告書の作成に追われ、自動・生徒と触れ合う時間は減らさざるを得なくなった。学校を管理する校長にしても、教育委員会に対する報告書の作成、特に教員の勤務評定に作成に追われるようになっている。校長は、教員を管理する機関となり、各教員に対する教育上のアドヴァイスをする立場ではなくなっている。

経験豊富な教員が新米教員に対するアドヴァイスをする、という風景がかつては存在した。現在は、各教員が報告書の作成や翌日の授業準備などに追われ、他の教員の相談に乗るような余裕が無くなっている。教員が忙しく児童・生徒に触れることが出来なくなれば、当然のように、教員に対する児童・生徒の信頼は減少していく。小学校のうちはまだ素直なので、問題が表面化することは少ないが、中学校・高校へと進学していくうちに、この教師に対する信頼の欠如や深刻な問題を生み出すことになる。教師は、生徒を管理する人間であり、信頼できない人間だという意識が醸成されていくからである。そのような人間関係の中で、通常、多くの人が期待する教育など出来るはずもない。

ある意味、その問題が深刻な形で現れているのが、「三流大学」だとか「底辺大学」などと称されている大学での教育現場に現れている。そうした大学では、通常の講義期間は、想像に反して平穏で静かである。問題行動を引き起こすような学生は、まず大学に来ていない。来ている学生は、静かに講義室で携帯電話でメールをしているか、寝ているか、である。「教室で静かにしていてもメールさえあれば退屈しない」のだそうだ。言い換えれば、講義など聴いていないし、聞いたところで理解も出来ないだろう。だから、教員はテストをしても簡単なものしか作成しない。

三流大学・底辺大学とよばれている大学教員のテストを見る機会があれば、見てみるべきだ。表現こそ堅苦しいが、いかにも回答できるようなものばかり。そしてその採点は、「甘い」。これで単位を出してもいいのだろうか、という疑問を、そうした大学の教員はすでに失ってしまっている。これは教員だけの問題ではない。大学経営者からの「単位を出せ」圧力は強いのだ。賢い教員は、別に単位を出しても出さなくとも関係ないのだから、自分の評価が下がることを惧れ単位を出してしまう。したがって、大学を卒業しても大学卒業レベルの学力になっていない者ばかりとなってしまう。

かつてソニーなどの大企業が、出身大学によって採用するというのは平等に反するという理由から、採用希望学生の出身大学を伏せて、採用試験を実施したことがあった。この結果は、この試み前よりもさらに、早稲田、慶応、上智といった名門大学の卒業生ばかりが採用されるということになった。当たり前である。学力がはっきりと異なるからだ。

世間では学力と人間力は関係ないという人がいる。嘘だ。学力と人間力はかなりの相関関係を持っているのだ。当然、例外もある。しかし多くの場合、学力と人間力との間には強い相関関係が見られる。

ここど付言。学力とは大学などで学ぶ知識などだけではない。大工などをしている人には、木材・器具などに関する深い知識がある。これらは通常、熟練した「技」と呼ばれるが、こうした「技」も学力の一つとして、筆者は考えている。

教育が崩壊すれば、人材育成の面で非常に大きな深刻な事態を招く。現在でも問題は深刻になっているのだが、多くの人は、「世代が違うから」だとか、「考え方が違う」体という風にしか認識していない。これまでの一つの尺度でしか、人間を評価しない教育制度の全面的かつ根本的な改革なくしては、教育制度の崩壊による問題は解決できない。

残念ながら、少数意見なので、見向きもされないのが悲しい。目の前の学生を見ていると、「腹立たしさ」よりも憐憫を禁じえない。

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中学1年生による殺人未遂事件

中学1年生が担任教師のお腹の中の子どもを殺そうとした事件が発覚した。
まずはこの事件を伝える新聞記事を掲載する。

朝日新聞:生徒が「先生を流産させる会」 いすに細工、給食に異物
2009年3月28日10時43分
 愛知県半田市の市立中学校で、担任に不満を抱いた1年生の男子生徒十数人が「先生を流産させる会」と称し、妊娠中の30代の女性教諭に対し、いすのねじを緩めたり、給食に異物を混入したりしていたことが分かった。
 同市学校教育課によると、生徒らは今年1月から2月にかけて、教諭の車にチョークの粉やのりなどを混ぜ合わせてふりまいたり、いすの背もたれのねじを緩めたりしたほか、消臭や殺菌、食品添加物などに使われるミョウバンを理科の実験の際に教室に持ち帰り、教諭の給食に混ぜたという。
 見かねた周囲の生徒が2月下旬、別の教諭に伝えて問題が発覚した。担任がけがをしたり、体調を崩したりすることはこれまでなかったという。
 学校側が事情を聴いたところ、席替えの方法や部活動で注意されたことへの不満を口にする生徒がおり、「先生に反抗しよう」という話が持ち上がったのがきっかけだったことが分かった。学校はその後、保護者を呼んだうえで生徒を指導し、生徒らも反省の態度を示しているという。
 校長は「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない。命の重さについて、より指導を徹底していきたい」と話している。

読売新聞:中1が担任「流産させる会」…給食にミョウバン、いす細工
 愛知県半田市の市立中学校で、1年生の男子生徒11人が、担任で妊娠中の女性教諭を「流産させる会」をつくり、この女性教諭の給食に異物を混ぜるなど悪質な嫌がらせを繰り返していたことが28日、わかった。
 同市教育委員会によると、嫌がらせを受けたのは30歳代の女性教諭で、当時は妊娠5か月~6か月。11人の生徒は席替えに対する不満や、部活動で注意されたことの腹いせに、1月末頃から、チョークの粉などを女性教諭の車に付けたり、いすの背もたれのネジを緩めて転倒させようとしたりするなどしていた。
 2月4日には、殺菌や食品添加物などに使われるミョウバンを、理科の実験の際に持ち帰り、教諭の給食のミートソースに混入。女性教諭は気付かずに食べたが異常はなかった。嫌がらせを見かねた生徒たちが、別の教諭に知らせて発覚。同校は同月下旬、関与した生徒と保護者を呼んで注意した。生徒は反省の態度を示しているという。女性教諭は4月から産休に入る予定。
(2009年3月28日12時48分  読売新聞)

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この事件、子どもによるイタズラの程度の認識しかされていない。しかしこの「イタズラ」はあまりに悪質である。この場合の流産というのは、お腹の中にいる胎児を殺害することを意味するのである。胎児といえど人間である。多くの胎児は、数ヶ月すれば、両親の祝福を受けて誕生してくる。その子を殺害しようとした事件である。

今朝のワイドショウなどでは、「いたって普通の子ども」という表現が使われていたが、今年(2009年)1月~2月の間、「いたって」長期にわたり、殺人行為を繰り返していたことを、悪質と言わずしてどうするのだろうか。

「イタズラ」と称されてしまった殺人行為の対象とされた女性教師の心情を、通常の常識を持った人間であれば、想起できるはずである。我が子の誕生を楽しみにし、それでも勤務校の生徒に対して適切な指導をしてきたにもかかわらず、その我が子の誕生を「イタズラ」という殺人行為で妨害されようとしたのである。生徒に対する信頼と愛情は、よほど能天気な人物でない限り、削がれてしまう。教育に対する熱意に水を差されてしまった。同時に、我が子を育てる母として、今後どのように振舞えばよいのか、と色々と悩まされてしまうに違いない。

「イタズラ」として処理してしまうには、あまりに重大な犯罪行為ではないのだろうか。事件の起こった中学校とそれを管轄する教育委員会は、「教育を徹底する」ことができなかったからこそ、この事件が起こったということを考え、法律に則った適正な処理をすべきである。

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2009年3月29日 (日)

暮らしやすい日本にしたい

日本に限らず、どのような社会にも「建前」と「本音」が存在する。それはどのような人間にもあるのだ。たとえそれが子どもであろうと、親の見ている前と見ていないところでの相違は、子ども番の建前と本音だろう。

建前と本音というと、否定的な見方をすることが多いが、それは社会生活を円滑に送っていくためには必要な人類の「智慧」でもある。建前と本音という二つの側面は、否定的に捉えるのではなく、肯定的にかつ積極的に捉え評価すべきものだと思う。

いくつかの事例に当てはめてみよう。まずはじめに、障害児に対する性教育の問題である。このブログでも記したとおり、障害児に対する性教育に、心無い政治家や官僚による批判がある。単に批判するならまだしも、批判している人たちは、何らかの形で政策決定に関わることが出来るだけに、タチが悪い。

性教育に関しては、人間の本性に近い部分だけにこれまで建前による教育が行われてきている。子どもの誕生について、小学校に上がる前の子どもには「コウノトリさんが運んできてくれる」と説明したり、小学生には「めしべとおしべのように」と擬人法を用いて婉曲に説明したりする。中学生になると、男女ともに第二次成長が始まるため、体の機関を用いてより具体的に説明しなければならなくなる。ただ、あまりにも気恥ずかしさがあるため、教育現場の多くは、できるだけ「学術的に説明」することで、建前的に教育しようとしている。これはこれで理解できるし、納得できるものだ。

しかし通常、多くの人が理解できる「建前と本音」の違いを理解できない人にはどう説明すればよいのか。めしべとおしべという比喩をそのままに理解し、それが人間の女性と男性でたとえていると理解できない人も、実は多い。とくに障害児の場合、特に知能障害を抱えている子どもの場合は、問題は深刻だ。こうした子どもに、性教育を行う場合、社会で一般的に行われ、誰もが違和感なく行っている「建前」の教育では、教育的効果を期待できない。実際に問題が起こってしまう。だから、「建前」を止め、「本音」でつまり実際の内容を比喩を用いることなく、直接的に表現し理解させようとしなければならないのだ。

筆者はふと思う。障害児教育における性教育を厳しく批判している政治家たちは、実のところ、「建前」だけで生きている人たちなのではないか、と。「建前」だけで生きていると、「本音」の部分を欠落させてしまう。人間的な温かみに欠ける人物になってしまう。他者を傷つけても、自分には一切無関係だと信じ、痛みも感じなければ、他者を気遣うことすら考えもしない。そうしたある意味での「発達障害」を持った人物であれば、障害児教育における性教育を、その実体を知ることなく、批判してしまうのだろう。どちらにしろ、悲しい出来事である。

次に、「本音」を重視しようとする人たちを考えてみよう。「本音」を重視する典型例は思春期の子どもたちであろう。体の発達と精神的な発達のバランスが崩れてしまい、ややもすればすべてのことに反抗的になってしまう。人間の成長の過程の一つなので、周囲の大人の寛大な目が必要になる時期でもある。

そうした「本音」を大切にしようとする子どもたちには、別な意味での怖さがある。純粋性といえば聞こえは良いが、この世に100%純粋なものなど存在しないだけに、理想を追い求める危うさとともに、純粋でないものに対する激しい憎悪と攻撃は他者を傷つけることが多い。

極端なたとえではあるが、どのように綺麗な女性であっても、オナラをすることもあれば、トイレでウンチもするのだ。それが健康な人間の健全な行為でもある。しかし、純粋さを追い求めようとする子どもには、そのようなものは「穢れ」であり、純粋でないものとみなされる。だから、壊してしまおうという衝動に襲われる。また、自己防衛本能が働くためか、己と異なるもの、例えば、異性や教師などに対するあまりに過激で無慈悲な言動をすることも多い。

精神的な幼さがなすことではあるが、それが度を過ぎると、成長の一過程だからと見逃すわけには行かないことになる。中学校の生徒が「流産させる会」を結成して、担任の女性教諭に対してさまざまな障害行為を行っていたことが、報道された。新聞報道の限りではあるが、生徒たちが教諭に対して障害行為を繰り返した原因は、「席替えの方法や部活動で注意されたことへの不満」だという。担任教員として、妥当かつ適切な指導を行っただけなのに、それを逆恨みして、妊娠していた担任教諭を流産させようとたというのだ。あまりに愚かで、おまりに恐ろしい事件である。

この事件は、障害行為ではなく殺人未遂である。傷害罪は刑法第204条に規定され、法定刑は15年以下の懲役または50万円以下の罰金となっている。殺人未遂に関しては、刑法203条に規定され、その罰則は刑法199条の殺人罪と基本的に同じである。つまり法定刑は、死刑、無期懲役もしくは3年以上の懲役に書せられる可能性があるのだ。(未遂財の場合、実際の運用では罪が軽減されることにはなる)

これだけのことを、学校と教育委員会はどのように処理しようというのだろうか。「反省させ、謝罪させた」から、なんらお咎めもないのだろうか。当然、反省させ謝罪させるひつようはる。当然だ。しかしそれだけでは、現場に立つ教員はどのようにして自分の身を守ることが出来るのだろうか。この事件の場合は、特におなかの中にいる子どもにその刃が向けられているという悪質性を無視するべきではない。

この事件の女性教諭は、今後、どのように生徒と接していくことが出来るのだろうか。席替えをさせたり、クラブ活動で指導したりすれば、必ず不満を持つ生徒は出てくる。不満をもち、流産させる会などを作り、殺人未遂行為をする生徒も、生徒は生徒なのである。事件が明るみにされない限り、教員は生徒を「差別」してはならないのだ。「賢い教員」は、いかなる生徒であろうと対等に接する。ただしそれは、多くの親が期待する教育というものではない。生徒をおだていい気分にさせるだけの教育がすでにで小学校、中学校、高校、そして大学にまで蔓延している。そうすれば生徒(学生)も教員も傷つかずに済む。しかしそれは決して教育というものではない。

建前と本音、やってはならないことと許されても良いこと、こうした区別が社会の中で有る一定の理解が出来ているようにしたいものだ。それが暮らしやすい社会を構築する最低の条件なのだろう。

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2009年3月27日 (金)

喫煙の被害について

近年、嫌煙権が確立されつつあり、タバコの煙に侵されていない空間が広がっていることは良いことだと、個人的には思っている。ただ、かつては1日3箱を吸っていただけに、喫煙者の気持ちも痛いほどに分かる。かつての喫煙者であるものの、今はかなり厳しい嫌煙者になっているからこその意見を開示してみたい。

タバコを吸う人(=喫煙者)はタバコを吸わないでおくということに辛さを感じる。出来るだけ多くのタバコを吸おうと、吸える場所を探し回っているはずだ。かつての自分もそうだった。中にはマナー違反をしようと一切気にしないという不届き者もいるのだろうが、多くの喫煙者はマナーを守りながら、喫煙をしたいと考えている(はずだ)。

「禁煙」と大きく書かれているところでは、喫煙者の多くはタバコを吸わない。新幹線の禁煙車両でタバコを吸う人を見ることがあるだろうか。航空機の中でタバコを数一がいるのだろうか。多くの喫煙者は「禁煙」と記されていると、まずタバコを吸わない。家庭でも職場でも、くどいほどにタバコを吸うことを批判されているのだから、普通のマナーを持った人であれば、あえて批判を受けるようなことは、まず、しない。

問題は、タバコを吸っても良いと思い込んでいる場所に、嫌煙者が来るような時だ。駅のホームに吸殻入れが置いてあれば、喫煙者はタバコを吸っても良いと思い込む。まるで、ここでタバコを吸うことは喫煙者の権利のように思ってしまう。一方、嫌煙者はたとえ吸殻入れがあろうと、タバコ特有の嫌なにおいを振りまくことを、マナー違反だと思う。ここに意見の対立が生じるのである。

多くの居酒屋に灰皿が置いてある。灰皿が置いてあるから、ここでタバコをいくら吸っても良い、自由に吸えると思ったら、それは喫煙者の「思い込み」と、嫌煙者は「思い込んでしまう」のである。嫌煙者は、たとえ灰皿が置いてあっても、ここは我慢できなくなるギリギリのところまでであれば、タバコを吸っても良い場所としか認識しないからだ。

喫煙者と嫌煙者の意見対立は、予定調和される場所などありはしない。両者は水と油の関係であるので、一方を優遇すると、他方から批判が巻き起こるのだ。したがって、両者の利害を一致させる方法はただ一つ。分煙を確立することである。

スーパーマーケットの入り口で、タバコを吹かしている人の多いこと、多いこと。この喫煙者は、入り口に灰皿が置いていあるから、そこでタバコを吹かしているのだ。入り口でないところに灰皿があれば、そこで吸うだけだ。とすれば、スーパーマーケットとしては、灰皿を入り口から離れたところに置くという措置を取るだけで済む。入り口には、灰皿が置いている場所を示す紙を張っておけば、マナー意識を持った人たちは、自然とそこに移動してタバコを吹かすようになる。ごくごく一部のマナーを守らない人のために、入り口に灰皿を置くようなことさえしなければ、スーパーマーケット入り口の分煙は成功する。

神奈川県が喫煙に関する条例を制定した。元々、日本でもタバコの煙による受動喫煙の被害は大きく報道され、喫煙県は制限されている。だからこそ、今後、喫煙に関する条例は多くの件に、そして法律として制定されるようになるだろう。

ただ決して忘れてはならないのは、嫌煙権の主張ばかりを保護すべきではない、ということだ。筆者は嫌煙者ではあるが、喫煙者の喫煙権を無視してよいとは考えていない。喫煙権も立派な権利である。分煙体制を確立し、両者の調整を図る試みが成功することを祈っている。この試みが成功しないときには、オーストラリアのように、喫煙者に厳しい立法が行われるようになるに違いない。

まあ、それ以上にタバコの価格を上げるべきだとは考える。アメリカやイギリスでは、すでに一箱が約1,000円くらいの価格になっている。この価格は、喫煙の現象を政策に狙った政策的な価格でもある。日本は、タバコ税を依然として税収入として考えているので、タバコ税が相対的に低く抑えられているが、すでに国会の中に、税収入としてではなく、タバコをひらす政策誘導として考えるべきだとの意見も出始めている。1箱1,000円のタバコを吸うようになれば、喫煙者は減るのかもしれない。この方法だと、喫煙者の権利を制限することにはならないし、貴重なタバコを歩きながら吸い、ポイ捨てするような不心得者も少なくなるのではないだろうか。

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2009年3月26日 (木)

役職と責任

日本社会に限らず一般に、高い役職に就けばそれだけ責任が重くなる。だからこそ収入もそれに見合った額に増加する。会社の社長や役員が、一般の社員よりも高級なのは、その分、仕事量も多いがそれ以上に責任が重くなっているからである。

民主党の小沢代表の秘書が政治資金規正法違反の容疑で起訴されたことで、小沢代表の辞任を求める声が上がり始めている。それはある意味、当然だ。次の選挙で民主党が勝利すれば内閣総理大臣に就任するかもしれない地位のいるのであるし、そうでなくとも野党第一党の党首である。一般の人よりも高い道徳性と責任を求められることは当然のことである。

ただ小沢代表の場合、単純に辞任すべきだと言えない状況も存在する。検察の捜査があまりに偏重しており、政権与党には甘いという印象をどうしても国民に与えてしまっているからだ。また、従来の政治資金規制法違反容疑に対する摘発の度合いも、今回は厳しくなっている。ケースによって摘発の度合いを変えてしまうことは、検察の裁量権を逸脱したものとも考えられ、法秩序の維持の観点からは、不当である。カネと政治の関係をただすというのであれば、他にやり方はあったはずで、今回の検察捜査に違和感などないという法律専門家は、検察側にあまりに寛大すぎる見解を持った人物だけである。小沢代表に関しては、いろいろなところでも論評されているので、これ以上ここでは触れない。

役職と責任という点から、あまりに無責任という人物は他にもまだいる。静岡県の石川嘉延知事の辞任表明は、無責任の典型である。静岡空港建設に関わる数々の失態と失政に対する責任を曖昧にしたままで、自らの名誉を守るためだけに辞職しようとしている。もっと早く辞任すべき人物であったであろうが、だから辞任して当然だと思うが、こうした無責任な人物に対しては社会的・道義的な批判を浴びせかける必要がある。地権者が知事の辞職を要求していることはまことに正当な権利の行使である。

静岡空港建設に関わる問題には、行政の怠慢や一方的な押し付けなどさまざまな問題を孕んでいる。今後、行政の専門家による解明がなされ、日本の行政改革の資料となることを強く期待したい。

また、大分県でも無責任行政が繰り返されている。昨年、問題となった大分県教育委員会に関して、小矢文則教育長の教育委員会委員の再任が県議会で決定された。小矢文則氏は、監督責任を問われ懲戒処分を受けただけでなく、教員採用に関わる口利き疑惑さえ取りざたされている人物である。こうした人物を、大分県の教育委員会委員に再任するということは、大分県自体(県知事と県議会)の良心と常識を問われることだ。ある意味では、昨年の大分県教育委員会をめぐる不正事件は、起こるべくして起こったものなのだといえる。

責任ある地位にいる人物が、自らの責任を果たさない社会で、秩序や道徳が維持されるのだろうか。今や、「嘘つきは政治家の始まり」などというジョークが、ジョークでなくなりつつあるのだ。悲しいと嘆くのを通り越して、「ただ笑うだけしかない」状況に陥っている。

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2009年3月25日 (水)

暴力、特にDVについて

暴力という概念は、多義的である。何らかの物理的な力を利用して他者に何らかの強制を強いることも暴力になる。暴力団の連中が使う暴力などは想像しやすいのかもしれない。だが、暴力はそれだけに留まらないのだ。

最近、家庭内での暴力が増えているという。家庭内暴力は、Domestic Violence = DV といい、DVを経験したという女性は3割に上るという。1割の女性はDVによって、生命の危険さえ感じるという。繁華街などで若いカップルを見かけることがあるが、その際、男の子が女の子をまるで拉致するかのように抱きかかえているのを見ると、何だが嫌な気分になるのだが、それはなんとなくその男の子が女の子を自由に「操ろう」としているように感じてしまうからだと思う。

結婚する前は、優しく紳士的な態度で接していても、結婚してしまうと、女性を自らの所有物とみなしてしまい、女性の行動すべてを管理しようとする男性は少なくない。だから、DVは、男性が助成を腕力で強制的に思い通りにしてしまうことの結果として起こってしまうが多い。精神的に幼すぎる男性にとってみれば、思い通りにならない女性は、まるで子どものおもちゃのようであり、人間とも思わないので、「それならば壊してしまえ」という短絡的な発想になるのかもしれない。怖い限りだ。

ただ通常言われている男性から女性へのDVだけでなく、時として女性から男性へのDVも存在している。一般に女性は力が弱い。だから腕力の強い男性が、腕力の弱い男性に暴力、つまりDVを振るうと考えられる。現実は、それだけでない。たとえ腕力が弱くとも、言葉や虚言・嘘を織り交ぜた誹謗中傷などを用いて、男性を自分の思い通りにしようとする女性もいるのである。

ここで確認しておくが、すべての男性がDVを行っていないと同じく、すべての女性が女性版DVをしているわけではない。

男性が女性の携帯電話を無断でチェックすると批判されることが多いが、女性が男性の携帯電話をチェックすることは、男性ほどには批判されないことが多い。ここの違いが、世間で流布する男性と女性のイメージの差にもなっている。実際は、イメージどおりでないことが多い。

いかなる男性であろうと、彼女や妻などが知らない異性との付き合いとはあるものだ。女性も同様。勝手に携帯を見て、怒って、わめき散らす女性に、男性は何を思うのか。これもまた、形態は異なるが、明らかに暴力である。

暴力とは、他人の可能性を奪うだけでなく、他人の行動を制約するという性質も併せ持つものである。

現在、他者に対する配慮がかける人が多い。心理学的に「発達障害」と認定される人は、100~200人に一人くらいいるらしい。「疑わしい」人も含めると、その割合は、小学校一クラスに1~2人はいる。そうした障害を持つ人だけでなく、あえて他者に対して配慮しようとしない人はかなりいる。

日常生活の中に、暴力などないと考えるよりは、暴力があふれているのが通常であり、そうした暴力をいかに排除していくか、と考えを変えることが重要なのである。DVは決して肯定されるものではない。しかし、腕力による暴力だけでなく、言葉やしぐさなどによる「暴力」も決して少ないないのだ。一方的に、「・・・である」と決め付けるのではなく、否定的な要素の存在を前提とした対策が求められている。

理想など存在しないのだが、それは別の見方をすれば、理想と対極にあるものを前提としてそれを減少させていく努力を前提とするほうがより現実的な方策なのである。DVが多い、などといって批判するよりは、DVは何もしなければ存在するのだから、それをいかに減少させていくか、と考えるほうがより現実的なのだ。

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2009年3月24日 (火)

専門家の言う「大丈夫」は大丈夫なの?

一般に、ある分野の専門家がその分野で行う発言には信用がおかれることが多い。野球の解説者が、「ここはピンチですね」などというとテレビを見ている人は、「どうなるのか」とドキドキしながら野球中継を見ていたりする。専門家は、その分野のことをよく知り、よく理解し、良いアドヴァイスをくれるものと、一般の人々は思うのだろう。それが社会一般の「常識」でもある。

ただ時に専門家の発言や行為が問題を引き起こすこともある。法律の専門家は法律のことを良く知っているので、彼らの言うことに間違いはないと思うことが多い。しかしテレビなどに出てくる弁護士も、特定の問題に関してさまざまな意見が分かれているように、専門家の言うことが本当に正しいとはいえないのだ。

考えてみればそれは当然だ。専門家といえどもすべての情報を得ているわけではない。各人の得ている限られた情報の中から判断を下すのだから、その判断がさまざまなものになってしまうのもある意味、当然といえば当然なのだ。

WBCの野球中継を見ていたら、解説者が時に「いい加減だなあ」と思うようなコメントをしている。選手としての優秀さと、解説者としての話術には大きな差があるのだなあ、とも思った。成田空港での貨物機墜落炎上事故に関しても、テレビでは専門家と思わしき人々がそれぞれのコメントを出していた。なるほど、と思えるコメントも、なんで、と思えるコメントも双方あり、疑問と好奇心を刺激してくれた。このようなことは、直接的かつ即物的に影響があるわけではないので、まだよしとしよう。

問題は、国民の生活に職説的かつ即時的に影響のある専門化の発言だ。小沢民主党代表の秘書逮捕の事件は、法律の専門家である検察官の国家権力を用いた捜査である。検察(警察も)の捜査は、影響力が大きい。だから、通常の場合、逮捕という強制力を行使する前には十分に容疑を固め、悪質性や違法性などを考慮して判断するものである。今回の逮捕は、そうした合法的かつ適法的な判断がなされていたのだろうか。検察官が法律の専門家だから、彼らの言っていることはすべて正しいという、世間に流布している「誤解」に基づき、検察官による適法なそして妥当な判断がされていなかったとしたらどうだろう。

官僚は行政の執行の専門家である。この問題を行政で処理するために最も良い方法を職務上熟知している。だからこそ、その知識を悪用することも可能なのだ。岡田民主党副代表が、「政権を取ったら、まず情報公開を行う」という発言をしたと報道された。当たり前のことを発言したに過ぎないのだが、その発言に対する官僚の恐怖は察して余りある。彼らは彼らなりの判断で、法律を自らに都合の良いほうへ解釈し続けてきているからだ。

日米安保に関する問題の多くが、アメリカの文書公開でアメリカ側から明らかになっているにもかかわらず、日本政府は一切、認めていないことなどその典型であろう。

専門家の言う「大丈夫」には、主語が抜けていることばかりだ。「大丈夫」なのは、「私たち(=専門家)」であり、「あなたたち(=国民)」ではないことが多い。このことを頭に入れておけば、専門家の言う「大丈夫」が非常に限定的で、しかも特定の利益集団に限られることが多いということは理解できるだろう。国家権力の行使に関わる専門家の犯すこのような「罪」は、悪質だということを改めて認識すべきだ。

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2009年3月23日 (月)

公共事業は儲かるの?

小沢民主党代表の秘書が逮捕され、拘留期限ギリギリになって、政治資金規制法の虚偽記載などの罪で起訴されるとの観測記事が出されている。

疑問①
なぜ、検察の都合の良い記事ばかりがマスコミで書かれるのだろうか。逮捕された被疑者に関する捜査情報は、通常であれば「捜査上の秘密」として公開されないはずだ。小沢議員サイドからの検察批判が強まる中で、対抗措置なのだろう。だとしら、逮捕された秘書個人の権利は、検察にうまく「利用」され侵害されているのではないか。

疑問②
この事件の発端は、西松建設が代議士に企業献金をしていたことである。年間に数千万円の資金を代議士に献金しても、十分見合うのが公共事業なのだ。建設業はそんなに儲かる業種なのだろうか。

ある組織がある建物(2棟)を建設した時のことである。当初、A棟は20億円かかるといわれていた。B棟は11億円かかるといわれていた。業者がそのように見積もっていたので、多分そうなのだろう。しかし、建設後に公表された価格は、A棟が35億円、B棟が25億円だった。公表価格は、お役所への届出書類に記載された価格でもある。この届出価格に応じて、補助金の助成額が決まる仕組みになっていた。補助金支給額は届出価格の50%。????? 加えて、この建物が建設された後、この建設に関わった職員や組織の長の車が急に高級車に変わったりしていた。その組織には必要もないクルーザーも、厚生福利の名目で購入されたりもしていた。

公共事業は、その積算価格の甘さに加え、建設費用の中からかなりの部分が「賄賂」や「横領」などの不明朗なものとなっている。そこから「甘い蜜」を吸う輩も少なくないのだろう。

政治家は国民のために働くべきであり、自らの欲望を満たすだけでは尊敬に値しない。

一方、検察も自分の気に入らない改革をするかもしれない政党の代表を血祭りに上げるようでは、法と正義の番人ではなくなってしまう。国民のカネで甘い蜜を吸うやつらに処分を下すことこそが求められているのであり、自らの好き嫌いによる権力の行使は、職権乱用以外の何者でもなく、信用を失墜してしまうことにもなるのである。

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2009年3月22日 (日)

太陽光発電普及の障害

日本では太陽国発電の技術が進んでいるにもかかわらず、普及していない。日本の技術を用いてドイツなどが世界第一位の太陽光発電国となっている。自然に存在し、環境にやさしいエネルギー源を利用する太陽光発電は、現在、深刻化しつつある環境破壊に対する対処策のひとつとして、積極的に普及を図らなければならないものだろう。にもかかわらず、普及していないのはなぜか?

普及しない原因は、何よりも、政府による無策につきる。2005年(平成18年)の末で、一旦、太陽光発電のシステムを個人で設置する世帯に対する補助金がなくなった。現在は、また補助金が復活しているものの、2005年末の補助金打ち切りによって、太陽光発電の普及は急速に衰えてしまった。

ある意味、当然であろう。太陽光発電システムを設置しようとすれば、個人住宅用でも300万円前後の費用がかかる。これだけの巨額の費用のかかる装置を個人が積極的に設置しようなどとするはずがない。だから、政府による政策的誘導措置が必要となる。

しかし政府は、太陽光発電普及のまず第一歩となる、最も基本となる補助金すら打ち切ってしまったのだ。日本政府には太陽光発電が普及してしまっては困ることがあるようだ。このような邪推(?)がもっともらしく思えてしまうのは、次の段階の普及策として期待される電力買取制度が全く整備されてこなかったからでもある。日本の電力事業は、電力の安定供給という御題目の下で、政府による徹底した規制と管理の下に置かれている。ただ、この電力会社は政府の方針と全く同じかというと必ずしもそうでもない。政府の保護の下に置かれながらも、民間企業としての利益を上げることが必要だからだ。

各地方に1社ずつ設置された電力会社は、個人の発電する電力が増加してしまうと電力発電量の管理が難しいという、会社の管理上の要求を絶対視し、個人発電の電力の買電量を制限している。しかも、買電価格は低く抑えられている。売電価格が高ければ、民間企業の中には、自然エネルギーによる発電を行おうとする企業が多く誕生してくるはずだ。一旦、設備を作ってしまえば、後はメンテナンスだけで収入を得ることが出来るからだ。太陽光発電のみならず、風力発電などが限られた範囲の中でしか普及していないのも、電力会社による「妨害」があるからだ。

ただ電力会社のみを批判することは出来ない。電力会社の会社としての合理性は、買電価格を低く抑えることにあるからだ。政府による優遇政策があるのだから、政府からの要請による買電価格の設定だけが、電力会社の合理性にかなうことである。

政府はなぜ、電力会社に遠慮してしまうのだろうか。コストの上では、原子力発電ほどコストのかかるものはない。かつては確かに、原子力発電のほうが低コストであった。しかし現在では、原子力発電は、電力会社が公表したがらない地域振興に係る補助金などを組み込めば高コストとなっている。

原子力発電に関しては、いろいろな議論があるので、ここではひとつだけ。核兵器の開発には原子力の研究が必要であり、現在の国際法体系の元で原子力研究を推進するためには原子力発電しか方法がない、という事実だけは忘れてはならない。

このような環境条件があるために、太陽光発電に関しては日本政府は消極的な姿勢を変えていない。福田政権のときに、太陽光発電に関して再度、普及策を練ろうとしていたが、現在の麻生政権は、前政権の公約を忘れてしまっているようだ。

短期的には、現在の日本政府の太陽光発電に関する政策は正しいのかもしれない(筆者はそう思っていないが)。しかし中長期的には、日本政府の無策は、日本にとって大きな損失を招くことになる。政府の無策が国民の損失をもたらすということを考慮し、国民は政府に対する働きかけをすべきだろう。(実際はまあ、行われることはないだろうが・・・・・)。

日本政府について囲うと思うと、なんとなく悲観的になってしまうのはかなしい。

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政治資金規正法をめぐる攻防について

小沢民主党代表の公設第一秘書が逮捕された事件からいろいろな展開があった。なんとも、呆れた展開だ。

以前から記しているとおり、この一連の事件が浮かび上がる「カネと政治」の関係が、一切、明らかにされようとはしていない。なんとなくうやむやにしてしまおうという政治的意図が、民主党だけでなく、自民党からも伺える。ホント、臭い、臭い。この問題を蒸し返されては困ってしまい政治家が多いからだろう。だからこそ、「カネと政治」の問題を改めて、追求する必要があるのだ。にもかかわらず・・・・・・・・・・、なんて、後味の悪い経緯を辿っているのだろうか。

次に、検察の問題だ。政治家の秘書を逮捕するなという気は全くない。しかしなぜ、20日間余りの拘置をするのだろうか。なるほど、刑事訴訟法上の合法的な捜査の一環なのかもしれないが、この拘置は、別の見方をすれば、禁固20日と同じなのだ。政治資金規正法違反かもしれないという「疑惑」のみで、警察・検察が無条件で禁固20日余りと同じ無条件の高知を行えることに問題はないのだろうか。

今回の場合は、政治家の秘書であり、しかも民主党代表という有力議員の秘書であるので、社会的制裁はまずないだろう。しかしこの対象が、一般のサラリーマンであったらどうだろうか。会社を無条件に20日余り休まされてしまうだけで、そのサラリーマンの雇用はどうなるのか。痴漢冤罪事件などでは、「自分は痴漢などしていない」という無実の主張をしているだけなのに、検察は「反省していない」として20日あまりの拘置と、起訴後の数ヶ月の拘置を課してしまっている。なんら無実の人が、数ヶ月にわたり拘置されてしまう。この制度に問題はないのか。

政治家の秘書だから逮捕されてもいい、というのではなく、誰もがその立場におかれてしまう可能性があるのだから、その事案の正当性と妥当性を検討してみる必要があるのではないだろうか。

また今回の事件に関しては、多くの人は、検察は小沢議員の秘書を逮捕するのだからかなり確実な証拠があるに違いないと考えていたに違いない。しかし、現実は? 確たる証拠もなく、秘書の逮捕をした、あるいは小沢議員立件に向けた博打を打った、若手特捜部堅持の暴走、などなど、さまざまな見方があるが、いずれにしても、確たる証拠がないからこそ、小沢議員の事情聴取すら行えない状況に陥ってしまっているのだ。

法と正義の番人として期待されている検察が、そのような状況にあることは、司法秩序の維持と運用に際して、非常に大きな問題があることを、国民の前に曝してしまったのだ。曝されてしまった以上、問題のある検察機構を、法の下での適性かつ妥当な組織とすべく改革していかなければならない。

日本も徐々に構造的疲弊が強まり、制度的矛盾が噴出し始めているようだ。

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2009年3月19日 (木)

匿名を使う心無いネットオタク

幾度となくブログの中で警告しているのだが、今でもどこからかやって来ては、エロサイトへと導くトラックバックをつけている輩が後を絶えない。このブログにログインしてまずやることがこうした悪質なトラックバックを消すことである。

なぜ、こうしたことが耐えないのだろうか。彼らは、つまりインターネットの世界に埋没してしまい現実の世界での出来事との区別がつかなくなった輩は、何を考えているのか分からない。そして虚構のインターネットの匿名性を信奉し、決して自らに責任は及ばないと確信して、インターネット上での悪事・悪戯に興じている。

筆者の知っている人物の中にも、インターネットに嵌り、昼夜逆転しながらインターネットに興じているという奴がいる。一度話をしたときの印象は、「この人の話すことは何が現実で何が空想なのか分からないなあ」というものであった。当然、その後、その人物との付き合いは出来るだけしないようにしている。

物事の善悪を自分で判断できなくなった時、その人間は、人間でなくなる。他人の迷惑など考えもせず、自分では何気なくしている行為なのかもしれないが、他人から見れば誹謗中傷以外の何者でもないことが多くなる。社会生活から脱落し、通常の社会生活を送れなくなる。

いかなる社会においても秩序があり、ルールがある。その秩序やルールを「強制」だとか「自由の剥奪だ」など批判することは、社会生活を送ること自体を否定することにつながる。個人主義といえば聞こえは良いが、その実体はわがまま以外の何者でもないし、社会の脱落者に過ぎないのである。

走した人物が、社会生活を送り、安定して平和な社会生活を送ろうとしている人たちの生活を、なぜ、脅かすことが出来るのだろうか。

ネットオタクは、インターネットを個人の些細な趣味や仕事に使用している人から見れば、邪魔者以外の何者でもない。個人の殻にはいっていたければそれでいい。少なくとも、健全にインターネットを利用している人たちの邪魔だけはするな!

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2009年3月18日 (水)

小沢民主党代表公設秘書逮捕のその後

小沢一郎民主党代表の第一公設秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された後の政局は、ある意味で混乱を極めていた。小沢代表の厳しい検察批判、検察サイドからの情報リークなど、何が真実なのか分からない状況が生まれつつある。それにいっそう曖昧としているのが、自民党の不思議なほどの沈黙である。何が問題なのだろうか。

逮捕された公設秘書は多分、起訴されるだろう。ここまでやって起訴せずに釈放など、特捜部の担当検事のメンツにかけて許されざることだろう。どのような微罪であろうと、立件するには証拠不十分であろうと、起訴するに違いない。

そうすれば、小沢代表は多分、代表辞任、もしかしたら議員辞職までするかもしれない。小沢代表にしてみれば、議員辞職しても、9月までには総選挙があるのだから、そこで新たに立候補し当選してしまえば、禊を済ましたことになり、復権できると考えるであろう。しかもこの方法は、自民党に対して大きなダメージを与えることにもなりえる。二階経産大臣のみならず、森元首相など自民党の重鎮にも、小沢代表と同じ穴の狢のような人が多数いるからだ。小沢代表が辞職し、自民党の疑いがかけられうる重鎮が議員にとどまるようだと、これまで民主党に吹いていた嵐が自民党に向かうことにもなりかねない。ただでさえ、支持率の低迷にあえぐ自民党にしてみれば、危機的なことだ。

フムフム、なるほど、とほくそ笑んでしまうのだが、まてよ、この問題はなんとなくすりかえられているのではないだろうか。

問題の本質は、「カネと政治」の問題だ。本来は政治が主であらなければならないものが、カネに振り回されてしまい、カネを持つものが主となってしまう異常な事態を避けなければならないということが、今回の問題の中から見出せる。政治に金がかかることに問題があるのである。政治に金がかからないようなシステムに改革する必要があるということが、今回の問題からクローズアップされなければならない。

加えて、今、カネの亡者となっている政治家たちにも、政治の場からの退散を求めなければならない。民主党議員であろうと、自民党議員であろうと、カネを中心に政治をするような政治家には政治の場からの退散を強制する必要があるのだ。それは小沢代表にしても同じことであるし、森本首相にしても然りである。

また検察の捜査にも大いなる問題があることが分かった。「国策捜査」なる言葉が飛び交っているが、近年の警察・検察の捜査手法には大いに問題がある。これまで捜査上の秘密というベールにくるまれていた「不正」も明らかになりつつある。ここに大きくメスを入れる必要があることが改めて明らかにされている。

政局に振り回されることなく、問題点を直すことこそが国民の利益なのだろう。

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2009年3月17日 (火)

商店街の衰退

各地の商店街が衰退している。店舗の多くがシャッターを下ろし、まるでゴーストタウンのような商店街すらある。特に地方の中小都市にその傾向が強い。駅前の商店街の衰退は、その町全体の雰囲気を暗いものとしてしまうため、地方の衰退と停滞を象徴しているかのようだ。

商店街はなぜ衰退しているのだろうか。顧客のニーズの多様性もその原因だろう。大量生産大量消費時代の画一的な商品では満足しないようになっている。商店街の商店の多くは個人経営だ。そのため、市場調査のようなことをするのではなく、店主の感性やカンに頼る経営が主体となっている。そのため、商品の中には「古臭い」と感じるものや「センスのない」と感じるようなものが並べられていることも多い。郊外型のショッピングセンターは企業経営の店が多く、顧客のニーズに合う商品を揃えている。従来の商店街に客が集まらなくなるのは、ある意味で必然であったのかもしれない。

では、集まらなくなったら、集まるように商店街を改革すればよいのだが、それは容易なことではない。衰退していく商店街には、えてしていわゆる「頑固」な店主たちが多い。しかも高齢化している。頑固であることも、高齢であることも、それだけで悪いわけではない。一貫した考えをもち、経験豊富であることの裏返しでもあるからだ。ただ改革を使用とする場合、これは障害になる。

ある商店街の再生に関った時のことである。会合に集まる商店街自治会の幹部の人たちのあまりの頑迷さに閉口したことがある。「俺の店の服のセンスが分からない客など来なくてもよい」や、「若い連中は安物しか買わないから、若い連中が来るのは嫌だ」とか、「若い者が店を出しても、すぐに止めてしまうから、協力しても何にもならない」などなど。今の状況を生み出した原因から目を背け、自己弁護と現状維持を堅守しようとする。そうした商店街が再生などするはずがない。

その商店街が衰退した原因の一つに後継者不足がある。息子・娘が店を継ぎたがらない。親は子どもに教育を与え、高学歴の息子・娘になっている。子供たちはいわゆる大企業に勤めるサラリーマンとなっているのだ。自分の仕事に自身をもてない人間に、他人がついていくはずもない。社員にはその会社を任せられるだけの人物などいやしない。仮にいても、しばらくすると転職してしまうのだ。

ここにも、今の日本で成功するためには、学校でよい成績を取って、大企業に就職すべきだという一つの成功モデルにしがみつこうとする画一的な思考が見られる。ほかにも成功するいろいろなモデルがあるというのに、それには目もくれようともしない。家業を継ぐことは、失敗のモデルなどではないのだ。

各地の商店街の衰退はなるべくしてなったとしか言えず、それを再生することは容易ではないといえよう。

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日本の雇用環境

かつて日本では、終身雇用制が実施されており、労働者は雇用された限り、よほどのことがない限り、定年まで働き続けることが出来た。この終身雇用制には、いろいろな考え方があろうが、少なくとも欧米社会で見られた労使間の激しい対立が起こることなく、労使協調が行われた。労働組合が、欧米のように産業別組合ではなく、企業別組合となっているのは、その名残でもある。

1980年代以降、日本でも新保守主義と称される政治勢力の勢いが増してきた。アメリカのレーガン大統領、英国のサッチャー首相と並び、中曽根首相が登場し、「小さな政府」を目指す行財政改革が実施されることになる。この影響はさまざまな分野に及び、多岐にわたるため、ここでは、労働組合だけに焦点を絞る。

中曽根政権の行財政改革の中心は、国営企業の民営化であった。国鉄、専売公社、電電公社をそれぞれ、JR、JT、NTTに民営化したのである。その過程で槍玉に挙げられたのが、国労であった。国鉄の労働組合はいくつかに分裂していたが、中でも最も勢力を誇ったのが国労であった。中曽根首相をはじめ、保守派の論客・政治家は、国労の労働者保護の行き過ぎた部分を誇張に喧伝し、国民の国労に対する反感を増徴させることにした。

結果、国労に対する世間の視線は厳しくなり、本来の労働者の権利を擁護し確立することは出来なくなった。ここで注目すべきは労働者の権利を擁護し確立することが出来なくなったのは、国鉄職員だけではない、ということだ。国労に対する批判は、労働組合全体に対する批判につながっていったのである。おりしも日本は第二次石油ショックの影響を脱し、世界経済の中での地位を高めるとともに、好景気に舞い上がっていた。労働組合の活動がなくとも、企業は賃上げ要求を呑んでいたし、雇用も安定していたのである。

労働組合の衰退は、労働者の権利の土台を根本から揺るがしていたにもかかわらず、多くの労働者は、自らが労働者であることすら忘れ、労働者の権利を守ろうという主張を、危険思想でもあるかのように思い込まされつつあった。

これまでの賃上げ交渉を振り返るべきであろう。好景気の時、企業経営者は将来の雇用維持のために賃上げは抑制して欲しいという。つまり賃金は上げないとの主張だ。この主張を呑んだ労働組合が、今のような不景気の時に、雇用を維持すべきだといえば、企業経営者は、「そんなことをすれば企業そのものが倒産する」といい、解雇を行い始めている。

解雇はまだ広く行われていないと思う人は、次の記事を読むべきだ。

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「育休切り」相談、過去最多に 前年度の1.3倍
                                2009年3月17日1時56分
 育児休業の取得などを理由に、解雇など不当な扱いを受けたという相談が、08年度は2月までで前年度の約1.3倍に増えていることが16日、厚生労働省のまとめでわかった。特に今年に入ってから急増しており、経済情勢の悪化で、弱い立場の人にしわ寄せが出ている実態が浮かんだ。
 育休の申し出や取得を理由に、解雇や雇い止め、退職勧奨、減給など不利益な扱いを受けたとして、全国の労働局に寄せられた相談を集計した。今年度は2月までですでに1107件と前年度(882件)を大きく上回り、比較可能な01年度以降で最高を更新した。
 相談内容も「育休後に復職予定だったが、会社から業績悪化で無理になったと言われた」など、経済情勢の影響を受けたものも多いという。
 妊娠や出産などを理由とした不利益な取り扱いの相談も、2月までで1806件と、すでに前年度(1711件)を上回っている。これを受けて厚労省は同日、全国の労働局に、企業への指導強化などを求める通達を出した。

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いつの間にか労働者の権利は大幅に抑制されてきている。法律的には変わらなくとも、実際の賃上げ交渉などをする労働組合が弱体化しているため、労働者の多くは個別的交渉をしなければならない。資本主義のもっとも獰猛な部分が露骨に出始めているのである。

いつまで、企業経営者の「恩恵」と「善意」に頼って、働き続けるのだろうか。あまりに不安定な状況に置かれてしまっていることに、早く気付くべきだろうが、無理かも・・・・・!

日本の雇用環境は、開発途上国と呼ばれる国々、つまり統治能力の欠如したあるいは弱体な政府しかない国とあまり変わらなくなっているということだけは確かだ。

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2009年3月16日 (月)

多様性か、画一性か?

社会の中に多様性がある方が良い(A)と考えるのか、あるいは社会は画一的である方が良い(B)と考えるのか。またその中間として、ある程度の画一性と多様性とが共存する方が良い(C)と考えるのか。さまざまな意見があるであろう。

ただ筆者は、Aの場合とCの場合は理解できるが、Bの場合は理解できない。人間は人それぞれがそれぞれの意見を持つ。それぞれの歴史を持つ。同じような考え方をする人はいても、同じ考え方をする人はいない。それを無理して、同じ考えに従うようにする必要などない。無理をするからこそ、強制が生まれ、さらなる矛盾が生じることになるのだ。

第二次世界大戦以前の日本社会はその典型例だろう。すべての宇宙・世界は天皇を中心として形成されているとする「八紘一宇」という架空の世界観を創り上げ、その考え方を国民(当時は臣民)に強制した。国家・政府と異なる考え方は危険思想とされ、排除された。学校教育にもこの考えは浸透してくる。教育勅語そのものは、当時の社会風土から考えて、当時の標準的な道徳観に基づくものという側面もあったが、次第に公民科教育が普及し強化されてくると、子どもたちに「国家のために死ね」という考えを教え込むようになった。このプロセスがなければ、特攻などという自殺的行為は起こらなかっただろう。国家・政府が、教育という手段を用いて、国家・政府の考えを国民に強制使用としてきたのが戦前の日本社会である。

日露戦争後、世界の大国に躍り出た日本に、異質なイデオロギーが広まりつつあった。共産主義である。共産主義は、個人が生産手段を私有することを(つまり所有権)を認めず、すべてのものは社会全体によって共有される(生手段の有==>共産主義)べきであると考える指導でもある。当時の日本の支配層にしてみれば、己らの財産が奪われる可能性のあるとても危険な思想と受け止められたのであろう。日本でも、共産主義は徹底的に排除され、共産主義者は弾圧された。虐殺されることも稀ではなかった。共産主義は危険思想であり排除すべき指導であるという考えは、今でも保守派と呼ばれる考え方をする人々の中に見受けられる。

前回のブログで取り上げた障害児に対する性教育の問題も同根である。なるほど、当該養護学校で行われていた性教育は、「通常(=健常)」の感覚からすれば、極端であり、わいせつに感じられなくもない。しかし、前回のブログでも記したように、知能などに障害を持つ子どもが社会生活を円滑にすごすために必要な教育でもある。この性教育は、障害を持った子どもを対象にしており、ある意味では特殊な教育なのである。障害を持つ子どもたちが社会生活を安全に過ごすための手段を教えるものなのだ。

社会にはさまざまな状態に置かれた人々がいる。すべての人が、「健常者」ではない。中には障害者とよばれる身体能力に障害を持つ人もいる。こうした多様性を認める社会が「普通の国」なのであり、保守派の(無責任に政権を放り投げた)元首相「美しい国」なのである。健常者であろうと、障害者であろうと同じだと言い通す社会は「異常」なのであり、「異常な国」であり、「醜い国」なのである。

産経新聞のコラムに、日本の保守派の「良心的な」コラムが掲載されていた。これが日本の「保守派の良心」を示すものだろう。以下に転載しておく。

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【産経抄】2009年3月16日
 日本初の本格的長編カラー劇映画「カルメン故郷に帰る」は、東京・浅草のストリッパーが、故郷の村に帰って混乱を巻き起こすコメディーだ。「わしが自分で裸で踊るより恥ずかしい」。娘が村でストリップをやると聞いて泣く父親に、笠智衆演じる小学校の校長先生がいう。
 「恥ずかしいということは人間だけが知っていることだ。尊いことだ。尊いことだよ」。人間だけが知る「尊いこと」を伝えるのが、教育のはずなのに、正反対の性教育がまかり通る学校があった。性器の部分が強調された男女の人形などを教材にしていた、東京都立七生(ななお)養護学校(日野市)もそのひとつだ。
 児童生徒が暮らす寮では、時や場所を選ばずに、性器の名称を口走ったり、触り合ったりしている、と保護者らから苦情が寄せられていた。集会室で自慰行為を始めた男子生徒に寮の職員が注意すると、「学校で恥ずかしいことじゃないと教わった」と答えたという。
 七生養護学校の過激な性教育が明るみに出たのは、平成15年に都議会で指摘した都議が視察し、それを小紙が報じたからだ。当時の教員らが、精神的苦痛を受けたなどとして訴訟を起こし、東京地裁は先週、都議の行為を「不当な支配」と認定した。
 何だか、従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組をめぐる騒動を思いだす。そもそも、昭和天皇を弁護人抜きで一方的に断罪する“法廷”など、放送に値するはずがないのに、政治的圧力の有無ばかりが取りざたされた。
 今回も裁判所は、性教育の内容については判断を示さなかった。問題の本質から目をそらした判決だ。元教員たちは、都教委に没収された教材を取り戻して、再び過激な性教育を広める決意を語っている。やれやれ。

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これが日本の「保守派の良心」なのかと、こちらの方こそ、「やれやれ」とのため息がでる。独善的で、偽善以外の何者でもない。こういう輩が、「良心的だ」ということには、怒りを通り越して、ただただ呆れ、笑うしかないのだろうか。

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2009年3月13日 (金)

障害児教育と性教育

朝日新聞の記事をまず引用する。

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性教育めぐる都議の視察「不当な支配」 東京地裁認定
                                                          2009年3月13日3時5分
東京都内の養護学校の元教諭らが都議3人と都などに損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁(矢尾渉裁判長)は12日、慰謝料計210万円の支払いを3都議と都に命じる判決を言い渡した。2003年に学校を視察した都議らが性教育を実践していた教諭を非難したことが教育への「不当な支配」にあたると指摘。都教委が教諭らを厳重注意したことも裁量権の乱用と判断した。
 「不当な支配」は教育基本法で禁じられており、教育現場への介入をめぐって不当な支配があったと認める司法判断は極めて異例。
 訴えていたのは、日野市にある都立七生(ななお)養護学校=現七生特別支援学校=に視察当時勤務し、03年9月以降に都教委から「厳重注意」を受けた教諭や保護者ら31人。田代博嗣、土屋敬之、古賀俊昭の3都議と都などに計約3千万円の慰謝料などを求めていた。
 判決は、都議らが同校を視察した際の発言について「一方的な批判で侮辱」と認定。「単なる議論の範囲だ」とする都議側の主張を退けた。
 そのうえで「学校の性教育に介入、干渉するもので、教育の自主性を阻害してゆがめる危険のある行為だ」として「不当な支配」にあたると判断。同行した都教委職員が都議を制止しなかったことも「不当な支配」から教育を保護するよう定めた改正前の教育基本法の教育条件整備義務に反して違法だと述べた。
 同校では、知的障害がある子どもは体の部位の認識が難しいために人形などを使った性教育をしてきたが、都教委側は「学習指導要領に反する」として教諭らを厳重注意とした。判決は「同要領に反し、同校の児童生徒の発達段階を踏まえないものであることが明らかだったとはいえない」として「著しく妥当性を欠き、裁量権の乱用だ」と結論づけた。

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この記事には次のような解説もついている。

■不当な支配
旧教育基本法は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と定めていた。教育現場の自主性を保ち、権力の介入を防ぐための規定とされたが、行政側の行為がどこまで許されるのかは教科書検定訴訟や卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱をめぐる訴訟などで繰り返し争われてきた。06年の同法改正では「不当な支配に服することなく」の表現は残ったものの、直後に続く文言は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と改められた。行政側の権限が旧法より強められたとみる識者は多いが、判例はまだ確立されていない。

さて、教育は誰のものか、何をすべきか。この根本に向かわない輩に教育を語る資格などあろうはずがない。

教育は、社会のものである。現在のような国家の形態を持つ限り、教育というサービスには税金という名の社会の構成員すべての金銭が使用される。こうした構成員が平和で安心できる社会生活を送る上で、社会のルールや定め、あるいは生きていくための知恵を学ばせることが教育の基本的な機能といえる。個人の知識や能力の向上は、その次の段階で期待されるものである。

矮小化された個人主義を唱える人々の中には、教育は個人のものだという人もいる。しかし、教育が仮に個人のものである考える人がいるとすれば、教育に公的資金を費やす必要はどこにもないということを、知るべきである。

教育の本質は、社会で円滑に平和に安心して暮らせる基礎を築くことである。とすれば、障害児教育施設の中で、仮に「一般社会」の中では猥褻だと感じるような教育が行われていようと、障害児が社会生活を円滑にすごしていくために必要な教育であれば、それは教育の一環なのである。この記事の中に出てくる3人の都議会議員がいる。田代博嗣氏、土屋敬之氏、古賀俊昭氏である。この議員は、己の信念に基づき、発言したのであろうが、その発言はあまりに教育現場に対する配慮を欠いた、あまりに稚拙な発言としか言いようがない。政治家としては、「おそまつ」ということ以外、評価しようがない。

三氏のブログなりホームページを拝見する限り、いわゆる保守派の政治家のようだ。土屋氏は民主党所属のようだが、民主党の中にも○×はいるということだろう。土屋氏のブログでは、東京地裁判決を茶化すようなコメントがある。じきに消される可能性もあるので、以下に記しておく。

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まだ出た「とんでも」判決・過激性教育
過激性教育に関して、古賀、田代、土屋、市議などが学校を視察したことや、教育庁が処分したことを不服として共産党系が訴えていた裁判の判決が出た。
ある意味、面白いと言えば面白い。三都議と教育庁合わせて10万円を養護教諭二人に払えと言うものだ。つまり、ひとり、25000円。交通違反で20キロ超過で払う金額に近い程度のもの。
これは、考えようだが、
たったの25000円で過激性教育が東京から、全国から駆逐されたことを考えるとコストとしは安い
そもそも、保健婦か何か知らないが「泣いた」と言うことだけで、圧力があったなどと良く言えたものだ。女の涙を知らない裁判官が判決を書くとこんな程度のものになる。
あれが、圧力なら、我が民主党の菅直人氏が、諫早湾の干拓で、水門を閉めようする、下級官吏(この人はただ、上の命令で閉めているだけで、責任はないように思えるのだが・・・)を怒鳴りつけていた映像がニュースで流された。では、あれも「圧力」と言えるのか。
組織的に、意図的にこの日本を崩壊させようとする連中が、ただ視察に行って、「はい、その通りです」などと言うわけはない。それ相応のやりとりはある。しかし、それは「事件」全体を見て判断すべきで、別に恫喝をしたわけでもないし、なんでもない。教員側は、用意周到、メモをする係りまで決めて待ち構えていたのだから、それは、それなりの筋書きに持って行こうと思えば出来ない訳はない。
何しろ、この性教協と言う団体。山宣に学べと言っているくらいだから、どうかしていると言える。詳しくは覚えていないが、婦人のことを【昼は家事を行い、夜は性の営みを伴う】奴隷とか書いていた。
この裁判、徹底して闘うが、訴訟費用も原告が300分の299.こちらが、1を持つそうだ。つまり、300分の299は先方の負け。こちらは裁判官の状況判断の間違いかケアレスミスと言うところだ。
これひとつ取っても、
勝った勝ったと共産党がお祝いする程のことではないが、明日の赤旗は、例の調子で書きまくるだろう。けど、赤旗なんて読んでいる人種はそれ程多くはないし、仮に取っているとしても、都庁のように議員が電話を掛けて来て、「仕方なし」に弁号箱を包む紙として、あるいは、てんぷら油を吸い取る紙として使っているに過ぎないので何の影響も、問題のあったものではない。
それより、ここで、性教育に関心が集まり、「えっ!そんなことしていたの」と実態が明らかになることの方が重要だ。
この4年。多くのところで、性教育の実態を話して来たが、皆、驚天動地。「本当にそんなことやっているのですか」「普通学校でもですか」
「教職員組合がやはり日本を駄目にしたんだ」
そんな感想ばかりだ。
当然でしょう。
次の裁判官には、
女の涙のご都合主義と全体の常識が分かる人が当たるように、神に祈りたいものだ。
それにしても、25000円か。ホテルで二人で食べるコース程度だ。そんな程度で繰り返しになるが、過激性教育が駆逐されたとなれば、本当に良かった!良かった!「良くやった!」と思いませんか。思うでしょう。それが、良識ある普通の庶民の感覚なんです。子供が「セックス、セックス」と大合唱、コンドームの装着実習を女子生徒がやる、このつつましやかな国民を一体どうしようと言うのか?それでなくても、若者の倫理が乱れ、エイズ患者は20万人。先進国で少女売春があるのは日本だけ。
レーガンは、レーガノミクスで、純潔教育を推進した。結果、レイプがなくなり、中絶がなくなった。
当然ではないか。イギリスでもサッチャー改革で同じことをした。
慎ましやかで、勤勉な、たおやかな日本が今必要とされている。
騙されてはいけないのだ。

追加;たくさんの応援ありがとうございます。古賀、田代、土屋は子供たちを守るため「正義の闘い」を貫徹する決意です。
ご激励に感謝すると共に、決意の表明とさせていただきます。
世間の人が、これを契機に「本当のこと」を知ったらどうでしょうか。
敵はいよいよ城から出ます。出たらこっちのもの。
※詳しい写真、論文は、表紙の下の過激性教育からご覧下さい。
 驚き、あきれるでしょう。
 
2009年3月12日(木) No.378 
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政治家でありながら、このようなコメントしか書けない知性の低さ。このブログの文章は、2ちゃんねらーと呼ばれる「オタク」と同じようなものだ。すべての悪は、共産党とする思考も、全く同じ。筆者は共産主義に賛同するものではないが、この問題と共産党との関連性が理解できない。また女性を蔑視する表現もあり、知性のかけらすら感じられない。事実を捻じ曲げて理解しようとしているところも散見される。勉強不足をごまかしているだけかもしれないが、事実誤認もはなはだしい。憤りさえ感じる文章である。

教育は、政治家の自己満足のものではない。教育は社会で必要とされる人々に必要とされる内容を教えるサービスである。一部の偏った思想・イデオロギーをもつ輩の私物などではない。必要な教育はしなければならない、ということ理解する姿勢をまず持つことを求めたい。

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2009年3月12日 (木)

教育に何を求めるのか。

高校の卒業式で渡された卒業証書が、授業料未納の生徒からは回収されていることが報道されている。多くの報道は、「それほどしなくてもいいのでは・・・・」というニュアンスを込めている。この問題、実は日本社会にある誠実・偽善・嘘などの複雑性を孕む問題のような気がする。

そもそも教育とは、サービスである。生徒(実質は保護者)が学校に授業料という金銭を支払う見返りに、学校から生徒は授業という名のサービスを受け取る。義務教育(小学校・中学校)の場合は、生徒に代わって国が授業料を負担しているだけだ。非常に簡単な構図なのだが、提供されるサービスが「教育」というものになることで、単に経済的な意味にとどまらない意味が包含されてしまう。

それはそれで結構なのだが、教育は生徒の知識とともに人格の形成にも資するべきサービスであることを忘れてはならない。一般の経済行為の中で、対価を支払わずにサービスを受ける行為、例えば、あるレストランで食事をしたが、その料金を支払わない場合はどうなるのか? 答えは簡単。警察のお世話になることになる。

授業料を支払わず、授業を受けていた場合も、本来であれば無銭飲食と同じ構図なのだが、そこは教育。警察のお世話になることだけは回避している。だから、生徒に授業料を支払いなさいという指導がなされている。その指導にも従わない場合、「仕方がない」と諦めたほうがよいのだろうか。それまでに十分、学校が指導している場合、「仕方ない」と諦めたほうが教育的効果はなくなるのである。なくなるどころか、その生徒は、社会をそのようなものと勘違いして、反社会的な行為を繰り返すことにもなる。

ある大学で学生が話しているのを聞いたことがある。その学生いわく、「高校の授業料を踏み倒してきた。親も払わなくていいと言うし、学校も世間の目が遭って強く出れないから、簡単だよ」と。その大学はいわゆる底辺大学・三流大学といわれているところ。講義は講義の態をなさないし、私語を注意すれば逆ギレされ、最近多くの大学が導入している授業アンケートには「死ね。やめさせろ」などの罵詈雑言が羅列させられている。注意されることもなくここまで来たからなのだろうが、こういう人物が大学教育を受けているのかと暗澹たる気分になることばかりだ。

「授業料を支払わないからといって卒業証書を渡さないのはかわいそうだ」ということを思う人物は、まさに共産主義を実現しようと頑張っている方々なのだろう。日本共産党すら、現在の資本主義の基本ルールは認めているというのに、非常に原理主義的なユートピアニストだと思わざるを得ない。

筆者は、卒業証書どころか、卒業させさせない方がよいという考えを持っている。現在、不十分とはいえ、さまざまな社会福祉制度があり、本当に貧しくて困っている人であれば、指定の高校授業料の社会的な補填はなされている。授業料を支払わない生徒(保護者)の多くは、携帯電話には数万円のお金を一月に使いながらも、授業料を支払わないものだ。こうした人たちをなぜ、「かわいそう」と思えるのだろうか。

いろいろな意見があることは当然であるが、現実の日本は資本主義経済で運営されている。この基本的ルールのもとで国民がしなければならない義務を履行せず、権利のみを主張する人々の権利を保護する必要などない、と思ってしまうのだ。

大学で私語ばかりしている学生を見て、かわいそうになる。彼ら彼女たちは、別の道を歩めばもっと違う喜びに満ちた人生が歩めたのに、と。日本の尺度が学歴のみに偏重しているために、大学で高等教育を受けることに向かない学生が、大学に行き始めている。このブログでも何度も繰り返してしまうが、1/2+1/3=5/6が出来ない学生に、理系の授業など理解できはしないのだ。小学校レベルの学力しかないのに、大学の授業についてこれるはずはない。

ひとつの尺度でのみ判断するのではなく、社会に生きる人間を育成するのが教育であるという観点に立てば、授業料未納に関わる問題にどのように対処すべきはおのずと答えが見つかるのではないだろうか。

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2009年3月 9日 (月)

どちらが嘘つき?

朝日新聞の記事を以下に掲載する。

「自民党側は立件できない」発言は漆間官房副長官
2009年3月8日9時4分
 西松建設の違法献金事件で「自民党側は立件できない」と発言した政府高官について、河村官房長官は8日朝のフジテレビの報道番組で、この政府高官が元警察庁長官で官僚トップの漆間巌官房副長官だと明らかにした。
 河村長官は番組で、漆間副長官から発言について報告を求めたと説明。河村氏によると、漆間氏は「記者との懇談の場で聞かれた。この種の逮捕についてはまさに法と証拠に基づいてやっているのだろう。しかし、それによって特定の議員への影響やその判断を示したことは一切ない。捜査の帰趨(きすう)に関することを説明したつもりはない」と、あくまで一般論を述べたことを説明したという。
 ただ、河村氏は、漆間氏が警察官僚出身で誤解を招きやすいとして「極めて不適切な発言として厳重に注意した」と述べた。
 漆間氏は5日、首相官邸で開かれた記者団との定例の懇談で「自民党側は立件できないと思う。特に(違法性の)認識の問題で出来ないだろう」と、自民党議員に捜査は拡大しないとの認識を示した。朝日新聞は6日、漆間氏に名前を明かすよう求めたが、断られた。7日は朝日新聞も加盟する内閣記者会の総意として記者会の代表が申し入れを行ったが、「オフレコ扱いのものを、さかのぼってオン(公表)にすることはありえない」と拒否していた。

保守的な論客、特に政治家は、ご自分の発言が問題視されると、必ず言っていいほど、「マスコミが勝手に解釈しているだけ」という言い訳をする。なるほどマスコミに全く問題が無いなどとは思わない。しかし発言の解釈と、その発言の内容とは全く異なるものである。上記の記事、さてさて、嘘をついているのはどちらなのだろうか。漆間官房副長官なのか、マスコミなのか。

どっちが嘘つき? マスコミ? それとも官房副長官?

国民としては政府の官房副長官たる者が嘘などついていないと思いたいのだが・・・・・

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官界改革こそ必要!

小沢民主党党首の公設秘書が逮捕されたことから、政治とカネの問題がクローズアップされた。民主党からの検察批判などがあり、公設秘書逮捕以来、さまざまな議論が巻き上がっているが、中でも漆間官房副長官の発言をめぐる官僚組織の問題が、日本政治の大きな闇となっているとことを改めて認識させてくれた。

検察は国家権力の最たる組織であるにもかかわらず、この組織が起こす犯罪はすべて「捜査上の秘密」などの名目で明らかにされることはなかった。三井環元検察官が、大阪高検の裏金疑惑に関してインタビューを受けようとした時、別件逮捕でその発言を封じたことは記憶に新しい。また佐藤優外交事務官への「国策捜査」など、検察の権力行使に関して、さまざまな疑惑が生じたが、それらが解明されたことはない。

三井氏あるいは佐藤氏に関しては、それぞれが何らかの脇の甘さを持っているため、その部分が過大に誇張され、問題の本質が隠されてしまったという性格がある。ただ、橋本元首相の献金事件に関しては、普通の認識能力がある人があの事件を観察すると、トカゲの尻尾切りと思うような解決を図った検察に、疑惑と疑いの目を向けざるを得ない。橋本氏の側近であった元官房長官にすべての罪をかぶせてしまっている。

今回の事件はどうなのだろうか。小沢党首が違法行為に関わっているいないにかかわらず、事件の全面的な解明は絶対的に必要である。同時に、漆間官房副長官のオフレコでの発言に見られるようなことが本当にあったのかどうか、検察以外による真実の解明も、絶対的に必要である。

これまで検察だけに限らず、官僚組織に関しては、個人の起こした犯罪・違法行為以外でその責任を問われることはほとんどなかった。しかし官僚組織の犯す犯罪は、その規模の面でも、法的責任の意味でも、無視できるようなものではない。その責任を解明し、責任を負うべき人物には、適法に、法的責任を負わせる必要がある。でなければ、官僚および公務員による不作為の違法行為もしくは怠業は無くなりはしない。

行財政改革のうち、これまでは財政改革に力点が置かれてきたが、行政改革、つまりは官僚組織、特に検察も含む全面的な組織改革が求められてきている。

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2009年3月 8日 (日)

お金と政治

民主党小沢党首の政策秘書が逮捕された後の政治情勢は、まさに「笑っちゃう以外にない」状態だ。自民党の軽輩は、「さもみたことか」と民主党批判を繰り返す。軽輩でない人たち、言い換えれば幹部クラスの人たちは、小沢党首に降りかかっている災難がわが身に来ないようにダンマリを決め込む。民主党内でもさまざまな意見が噴出し始めているようだ。

この人たちは何が楽しくて、何をしたくて政治家になっているのだろう。

問題の基本は、政治とお金にかかわる問題だ。まず企業が政治家に献金する時、単にその政治家を応援しようと思うだけでお金を出すようなことはない。当然、何らかの見返りを期待してのことだ。だから企業献金が政治家個人に渡されることが禁止されているのだ。この基本が、この問題を考えるときの出発点であるべきだ。

小沢党首の場合、自民党時代からの利権を今でもそのまま引き継いできたのだろう。だからこそ、巨額の政治献金を集めることが出来るのだ。小沢党首の集金能力は他を圧倒するものであることはよく知られていることだ。そのことが、ある意味で、当然として認識され、あまり問題視されてこなかった。お金と政治にかかわる問題は真剣に捉えられてこなかったのである。

今、その問題が改めてクローズアップされた。小沢党首のみがターゲットにされたことは別の問題として、お金にかかわり違法な行為があるのであれば、それが小沢党首自身であろうと、自民党の最高幹部に当たる人物であろうと、捜査対象とされ、もしそれが違法だと判断できるのであれば、適切に裁判所に起訴されるべきであろう。それが法治国家たる日本の当然の姿である。政治家であろうとなかろうと、違法行為をしたものに対してはその責任を貸すことは、民主主義の基本だ。

加えて、今回の捜査にかかわり、別に改名しなければならない問題もある。小沢党首ならびに民主党から提起されている「国策捜査」の問題だ。漆間官房副長官が「自民党には捜査が及ばない」とオフレコ懇談会で発言した。発言の真意など不明な点が多いのでこの点に関しては今後、明確な説明責任が求められるのでそれを待ちたい。ただ、この発言によって、検察、特に特捜部の捜査に何らかの政治的意図が込められたとの危惧を深めている。

民主党などの言うとおり、小沢党首の政策秘書の逮捕は絶妙のタイミングであった。新聞紙上で、この逮捕は予算案成立後に予定されていたとの報道もある。当然、多くの国民は、この逮捕劇の中に、検察の政治的意図があると察しているのだ。

法の番人でなければならない検察が、政治的に動いたとすれば、しかも同じ罪を犯したものの中で、権力に近い側を罰せず、権力に対抗するものを罰しようとしているとすれば、その不公正は、権力の乱用以外の何者でもない。これこそ、説明責任をたはすべき事項なのだ。

何よりも、今回の出来事のすべてを、政治家、検察、双方が国民にその説明を果たさなければ、事実を開示しなければ、それぞれに持たれた不信感が払拭されるようなことはない。定額給付金を受け取ることを「さもしい」といった内閣総理大臣が、定額給付金を「受け取る」と発言するようなブレどころではない、司法に対する信頼が崩壊する危機に直面しつつあるのだ。

検察・警察が常に使う「捜査上の秘密」などという逃げ口上が使われないことを祈り、司法の信頼が失われないよう心から祈念している。

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2009年3月 4日 (水)

検察vs小沢民主党党首:国策捜査の行方

民主党の小沢党首の公設第一秘書が政治資金規正法違反の容疑で逮捕された。政界を揺るがす大きな事件であったが、どうやら、検察と小沢民主党党首との全面対決に発展しそうな気配だ。

検察は逮捕・起訴する権限を持つ国家権力の典型例だ。しかしその権力は、法律に則りかつ正統に行使されているか疑問を抱かざるを得ない事件が頻発している。外務省の機密費にかかわり逮捕起訴されている佐藤優氏、元検察官で現在収監されている田中森一氏、元検察官で検察の裏金問題を告発しようとして逮捕・基礎・収監されている三井環氏など社会的に注目されている事案も多い。

小沢党首は、民主党本部での会見で、秘書逮捕のことに関して「不公正感を感じる」と発言している。この発言が真実であるとすれば、検察による国策捜査という性格が強まる可能性が強い。

検察が国策捜査として今回の逮捕を指揮したとすれば、検察官の責任は当然、追及されるべきである。またその一方、献金問題が検察の言うとおり「違法」なものだとすれば、小沢党首の政治責任は免れないであろう。

どちらにしろ、真実を明らかにし、この問題の明白かつクリーンな解決を期待したい。

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2009年3月 3日 (火)

学校という教育機関

学校は教育機関である。教育とは、さまざまな定義があるにしろ最大公約数的な定義とすれば、人間が持つ能力を引き出したり、身に付けさせたりする営みと考えることが出来る。一見すれば、非常に高尚な活動をしているようにも思える。しかしその一方で、人が行う活動であるという限界から、理想とされるものとは全く異なる現実も存在する。その落差の中で、学校という教育機関は日々もがき苦しんでいる。

一般の認識と、学校という現場にいる教員が持つ認識とには大きな隔たりが存在する。一般の認識では、学校という機関は、人を教育する場所であるのだから、世間一般の常識から大差ない良識的な雰囲気の中におかれていると思うだろう。現実は異なる。

まず教育を受ける対象者としての子どもの問題である。真面目・不真面目という区分を超えた、一般の常識からは想像も出来ない子どもが現実に存在する。教員の指導に従わないだけでなく、指導する教員に食って掛かる子どもが相当数いるのだ。ここで「食って掛かる」という表現をしたが、それ以外によい表現が浮かばない。「反抗」すると言えば、反抗する側に何らかの主体性があるはずである。現実は、指導の内容に反発するのではなく、指導されること自体に反発する子どもたちだ。指導されることに反発する子どもに、どのような指導が成り立ちうるのだろうか。

教員の指導に協力するであろうと想定される親の問題も多い。上記のような子どもの親はその多くが、同じようなものだ。学校の教員の言うことは信用できないとでも思っているように、まさに教員に食って掛かる。その理由を教員の多くは理解できない。何を要求しているのか、何を根拠にそのようなことを言うのか。

ある大学での話。キャンパスの近くに改造された車が停められていた。その車には学生のほしい改造用のマフラーがつけられていた。その学生はそのマフラーが欲しくなったので、そのマフラーを取り外していたところ、警察がやってきて、窃盗の現行犯で逮捕された。この犯罪は大学の知るところとなり、学生の処分をするために親を大学に呼び寄せたところ、親から「子どもが欲しいものをホンの出来心から取ろうとしただけ」と強く批判されたという。何をかいわんや、である。

この話には後日談がある。その大学は親からの抗議を受け、当該学生に対する処分を一切しなかったそうだ。子どもも子ども、親も親、また大学も大学、である。ホトホト呆れるばかり。

教育を受ける子ども、またその親に問題が多い。小学校、中学校、そして高校で問題視されているモンスターピアレンツは、大学にまで拡張してきている。

一方、教育機関の問題も多い。その問題は別のときに。

日本の教育が崩壊しつつあることだけは確かなことのようだ。

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2009年3月 2日 (月)

政局より政策を!

自民党と民主党とに夜醜いネガティブ・キャンペーンが始まっている。民主党の小沢党首の防衛問題に関する発言を取り上げ、「民主党には政権担当能力がない」とか、「現実を無視した暴論だ」などという批判が展開され始めた。

民主党に具体的なマニフェストが存在せず、政権を担当するようになった時に、それぞれの分野における意見対立が生じるであろうという予想は容易につくことである。菅元代表のグループと前原元代表のグループが、防衛問題で意見を同じにするとは思えないし、福祉政策などの分野でもさまざまな思惑が錯綜していることは事実であろう。自民党幹部による批判はあながち的外れでもない。

ただ自民党も自党の内実を弁えた上での批判とは思えない。防衛問題然り、年金問題然りである。党内のさまざまな意見対立を集約して、自民党としての政策に纏め上げてきたのではないだろうか。野党である民主党としては、民主党としての政策に纏め上げる必要性がないわけだから、、自民党の批判は酷に過ぎるといわざるを得ない。

これまで自民党は、民主党に対して具体的な政策がないという批判を繰り広げてきた。そして批判ばかりすると。しかし今やその自民党が、具体的な政策を打ち出せずにいる。しかも政権与党でありながら具体的な政策を打ち出せないほどに、党内は混乱しているのである。そして打つ手がなくなれば、民主党を「批判ばかり」している。なんだか、これまでとは全く逆の構造になりつつある。

民主党サイドの対応も悲惨。自民党の批判に対して、具体的な政策を提起する方法をとればいいものを、批判に批判で応じるというこれまでの手法しかとれずにいる人々も多い。

今、国民が求めていることは、経済情勢を回復させ、雇用と社会保障を安定させることである。その次に、官僚政治の打破や自民党による硬直した世情の打開などが来るのである。まずは景気の回復だ。

自民党は自民党でごたごたして、麻生政権が発足しすでに半年がたとうとしているのに、具体的な政策は一切実施されていない。これが「政局より政策を」と言い続けている政権のすることなのか。これだから国民からの信頼を失ってしまうのだ。

民主党は、麻生政権の無様さを教訓に、自民党からのわけの分からない批判・誹謗を聞き流し、民主党として今すべきことをすることだ。それが政権獲得の近道であろう。国民はすでに気がついているのだ。自民党にはすでに政権担当能力が欠落し、このままでは国民の生活が崩壊してしまうと。ジンバブエの例を知らなくとも、政権が国民を見なくなれば、国民生活が崩壊することに国民は気がついている。利己的かつ自己中心的な発想で政権を握り続けようとしている自民党に飽き飽きしているのだ。

政治家は、「政局よりも政策」を打ち出すべきだ。これを真の意味で、国民が納得できる形で具体化した政治家を国民は信用することになるだろう。

小泉政権の功罪はさまざまだが、少なくとも小泉政権は具体的な政策を提示していた。だからこそ、国民は大いに支持したのだということに早く気付く政治家が出てくることに期待したい。

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2009年3月 1日 (日)

高校の授業料

中国地方の高校で、授業料を払わないと卒業証書を渡さないとしたら、教育委員会が「それはおかしい」といったと報道された。

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義務教育ならある程度は理解できるが、高校は義務教育ではない。しかも貧困や困窮などによる授業未払いに関しては、さまざまな保障がなされているなかで、授業料を支払わないと卒業できないのは当たり前ではないのだろうか。

教育は慈善事業などではない。教育サービスであり、対価を要求する活動なのである。国家が義務化しているもの、つまり小学校と中学校でも対価は要求されており、その部分を国家が支払っているだけである。

授業料を支払わないことは、子どもには責任はなく、その親に責任があるのだ、という議論は、親と子どもの関係をあまりに個人対個人に矮小化した考え方である。親に支払うように説得する義務も子どもにはないというのだろうか。

社会にはさまざまなルールがある。対価を要求されているサービスを受ければ、対価が要求されて当たり前だ。支払わなければ、サービスを停止するだけなのだ。この基本ルールすら理解できない人に、高校の卒業証書を渡す必然性がどこにあるというのだろうか。

今回の報道に接し、教育委員会が通常、高校などに通達する冷徹な内容とあまりに異なるため、マスコミに迎合したな、としか思えない。しかしこの迎合は、学校現場に悪影響だけを残すことになるだろう。高校授業料の「ただ乗り」がこれから横行していくに違いない。

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人間らしい社会を!

お金のために人が働かされることに賛成する人は少ない。しかし現実はそうなっている。

日常生活を振り返ってみれば、家族、地域社会などはその機能を著しく低下させている。家族は大家族から核家族へと変容し、しかも父親は夜遅くまで会社にいる。家族団欒という現象を記憶にとどめる子どもも少なくなっているのではないかと危惧することすらある。地域社会の崩壊については語るまでもない。

会社、学校も、従来のものとは大きく変容している。会社は従来、終身雇用制度を維持していたが、バブル期にアメリカ型の企業経営がもてはなされ、アメリカ社会の基本的構造すら知らない浅はかな企業経営者たちが、会社の利益増対のためだけにさまざまな制度を導入し、終身雇用制度はかなりの程度形骸化してしまっている。労働者の権利も、かなり奪われてしまっている。その典型例が、派遣労働なのだ。

また、学校などもおかしい。勉強の出来ない子どもになぜ、大学に行せなければならないのか。他に選択肢はなかったのだろうか。

社会のすべてが「人間とは何か」を考えず、利己的かつ自己中心的になって、人間らしさを喪失させた社会を作り出しているように思える。今こそ、人間らしさについて考えるときなのだろう。

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産業構造の抜本的改革の必要性

日本は戦後、第一次産業中心の産業構造から第二次、そして第三次産業を中心とする産業構造へと変容してきた。この変容は池田政権の所得倍増計画などを契機にいっそう急速に進んでいくことになった。

産業構造の変化・変容は、経済力の向上とともに起こりうる現象であるが、ここで忘れてはならないポイントがある。それは、政治と産業界との関係である。

政界は1955年体制成立以降、農家を主たる支持基盤とする自民党が政権与党として君臨してきた。1990年代の一時期、自民党が野に下ることがあったが、その一時期を除けば自民党が政権与党であり続けている。自民党の強力な支持基盤は農村にあった。

そのため、農家を「優遇」する政策を採る一方で、日本産業の構造的変容を進めるという矛盾したことを同時に行おうとしたのである。

農家に対する優遇政策の最たるものが食糧管理制度であった。米の生産・流通・販売に政府が深く関与し、生産者米価(政府が生産者から買う米の価格)と消費者米価(政府が消費者に半場うする米の価格)に差を設け、生産者と消費者の双方が喜ぶ形をとり続けてきた。ただその際の資金は税金なので、後、巨額の財政赤字を生み原因のひとつになった。

また農家を農協という準感性的な組織に組み込み、政府の減反政策などを実施しやすくした。農家にしてみれば、高度経済成長とともに、跡継ぎがいなくなり、減反政策をしなくとも、減反せざるを得ない状況に追い込まれているところへの減反政策なので、政府に感謝する一方の政策でもあった。

生産した農産物の価格をかなりの程度、政府が関与して決める制度・システムが作り上げられているので、日本の農産物は割高に推移することになった。

また日本の「土地神話」は、農家をあたかも貴族のようなある種の「特権階級」にしてしまった。農家の保護という名目のさまざまな施策が、結果的に新規参入者に対する高い高い防壁となって邪魔している。農業に従事する人々の急速な減少と高齢化という現象に直面してもなお、なんら対策を採ろうともしていない。

日本の貿易構造が加工貿易を基本にし、国内における市場の育成をおろそかにしてきたことが現在の経済不況を日本でより深刻な形で表出させた原因となっている。それと同じことが、農業など政府による「無意味な」保護政策という名の規制によって、起っているのである。

規制緩和が悪いことかのような風潮が生まれ始めているが、緩めるべき規制と、維持するべき規制とを区分して考えるべきであろう。これまでの既得権益者のみが、一部のもののみが利得を得るような規制は廃止し、社会全体の秩序と福利に利するものは維持すべきなのだろう。

どうもこうした判断を現政権はする気もないようだが、日本の長期的な展望にたてば、おのずと答えは決まってくるように思える。日本に残されている選択肢は、多くの国民が考えるほどには多くないのだ。

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