教育とは何か?
神奈川県立神田高校が、入試の合否判定の材料として受験生の服装や態度などを含んでいたことが問題視され、校長が左遷された事件があった。このブログでも、2008年10月29日に「高校入試の不正」として取り上げた。
教育現場の教員が、生徒や学生の問題行動に苦しんでいることは、想像して余りある。真摯に取り組めば取り組むほど、教育委員会は「問題を起こさないように」と指導しようとする。保護者たちは自分の責任は棚に上げて、学校の問題点をほじくるように突いてくる。四面楚歌に置かれがちな教員が、それでも使命感からもがき苦しみながら、教育を続けていこうとしていることは尊敬する。
神田高校の事件は、その後、地域住民や父兄から校長先生の努力を見直すようにとの嘆願が出てきて、神田高校の周りの人々は良識ある人々だと思っていた。確かに、入試要綱に記載していない項目で、合否判定をすることに問題はある。服装や態度を合否判定の項目にすることには何ら問題はない。要は、判定基準を明確にしていたかどうかだけのことだ。神田高校の校長の判断のうち、判断基準を明確にしていなかったことは批判に値するが、その校長先生の真摯な取り組みには敬意を払いたい。
教育現場で日夜頑張っている人たちがいる一方で、とんでもない高校もあった。愛知県新城市にある私立黄柳野高校である。朝日新聞に次のような記事がある。
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http://www.asahi.com/national/update/1201/NGY200812010011.html
2008年12月1日12時29分
黄柳野高「生徒の3割喫煙」 校長会見、喫煙室は閉鎖
愛知県新城市の私立黄柳野高校(辻田一成校長)が、生徒寮に禁煙指導室という名称で生徒用の「喫煙室」を設けていた問題で、同校は1日、全校集会を開き、「学校から喫煙をなくそう」と生徒たちに指導した。同校は同日、禁煙指導室を閉鎖した。
集会後、辻田校長が会見し、全校生徒231人の約3割にあたる72人(男子47人、女子25人)が喫煙していることを明らかにした。
同校は不登校の生徒を支援する目的を掲げて1995年に全寮制として開校した。開校以来、同校では喫煙をする生徒が目立っていたという。
同校は、職員会議などで話し合い、2010年を目標に、学校での喫煙をなくす取り組みを進めていた。生徒にはたばこが及ぼす健康被害や火災の影響などを聞かせ、1カ月に1回、カウンセリングをしていたという。今後の指導方針について、辻田校長は「正直いってどうしていいか分からない。こうした方法しかなかった」と話した。
辻田校長によると、生徒たちは不安を隠せない様子で、集会で生徒から発言はなかったという。生徒たちは11月30日夜から、寮の中で喫煙について話し合いをしていたという。辻田校長は「やむを得ない措置として暫定的に実施したが、今後は法令を順守して改めたい」と話した。
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教育とは字のごとく「教えて育てる」ことである。知識の伝達以上に、人として、人間として、どのように生きていくのかを教えることが教育の本旨である。20歳未満が喫煙することは、人として生活していく上での最低限のルールを定めた法律でも禁止されていることだ。その最低限のルールすら守れないようでは、教育をしているという意味が全くない。
黄柳野(つげの)高校は、ホームページによれば、ユニークな教育を打ち出そうとしているらしい。黄柳野高等学校設立趣意書では立派なことが書かれているし、トップページでは不登校の生徒や、中途退学した生徒の再チャレンジなどを支援するとホームページで謳っている。高邁な教育理念を掲げならがも、実際の教育実践が喫煙を認めるようなものであれば、教育する意味そのものが失われてしまうだろう。
繰り返す。法律は、特に刑事罰を規定する法律は、社会生活上必要な最低限のルールを定めたに過ぎない。その最低限のルールすら守れない生徒に、教育など出来ない。少なくとも、教育機関として生徒を受け入れ、教育しようとしているのであれば、社会の最低限のルールを守るべきであろう。
こういう主張をすれば、当然のごとく、「喫煙する生徒はどうすればよいのか」という反論があるだろう。筆者は次のように言いたい。義務教育と高等教育とでは位置づけた異なる。高等学校以上の高等教育を受けようとするのであれば、法律に規定される最低限のルールは守れるようでないと意味がない。その上で、高校に進学するべきだ、と。
誰もが高等教育を受ける必要などないのだ。別の方策もある。異なる生き方もある。何も、高校に行き、大学に行くことだけがすべてではない。そうした方策を考えるべきだ。
そうしたことを考えもせず、単に営利のために生徒を受け入れ、何も教育しないような機関を教育機関と呼ぶことに異を唱える。底辺大学、三流大学と呼ばれる大学を見て欲しい。あれを「大学」と考えてよいのだろうか。単に経営者や教職員の利益だけを追求しているような組織に教育などできるはずがない。改めて、教育を考え直す必要があるのではないだろうか。
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