厳罰化の傾向に一言
刑罰を規定する項目は、社会生活上必要な最低限のモラルやマナーであるべきである。それに違反すれば、社会を構成する人々に迷惑をかける、だから、罰則を規定し、守らない人には等しく罰則を課すことで、人間が人間を罰することが正当化される。
で、最近の傾向を見ていると、フッと振り返って考えたくなることが多い。
一つは、厳罰化は本当に正しいのか。飲酒運転による重大事故が多いので、厳罰かもある意味仕方ないことなのだろうと思う。しかし同時に、現在の厳罰化傾向が、厳罰化しようとした最初の意味を成し遂げているのか疑問に思う。飲酒運転の場合、重大事故が多いので、飲酒運転を無くそうとして厳罰化された。実際、飲酒運転そのものの十巣は減少したようだ。ただ飲酒運転に起因するひき逃げ事故や、「引きづり死亡事故」のような痛ましい事故が続発していることも事実だ。加害者の大半が、飲酒運転がバレルのが怖くて逃げたと証言しているように、厳罰化することで却って重大事故を引き起こしている側面もある。
これだけであれば、加害者の人間性の問題だということに矮小化することも可能なのかもしれないが、他のいろいろな厳罰化の傾向を見れば、厳罰化という現象そのものの是非を検討せざるを得ないのではないか、との結論に至る。例えば、携帯電話を使用しながら自転車に乗れば罰金5万円という改正道路交通法が施行され始めた。なるほど、携帯電話を使用しながらの自転車は危険ではある。しかし、5万円の罰金という厳しい刑罰を課すほどのことなのだろうか。
さらにそうした「違反行為」を公正に取り締まっているのか、という問題もある。街中を歩いていると携帯電話で話をしながら自転車に乗っている人が多い。しかも警察官の目の前を通っているにもかかわらず使用し続けている。そして警察官をその自転車に注意することもなく見逃している。????、不思議な気分。
そう言えば、警視庁の警視が飲酒運転で懲戒免職になった。当たり前だと思うが、あの元警視、飲酒運転だけでは仲間内の警察官が検挙することなどないと思っていたのではないだろうか。仕事で繰り返し、飲酒運転撲滅を言っていた人物が、たまたま飲酒運転をするだろうか。たった1~2時間の仮眠では飲酒運転ではなくなることなどないということは、十分に知っていたはずだ。にもかかわらず、警察官の集まりでお酒を飲み、仮眠をとった後に車で帰宅するという愚挙に出たのはなぜか。飲酒運転を繰り返していたが、警察官であるということで、警察に検挙されることがなかったからではないだろうか。今回の事故では「たまたま、衝突事故」を起こしてしまったので、見逃すことが出来なかったからだと考えるのは、あまりに穿がり過ぎた見方なのだろうか。
ヤル気のない警察官と、不作為に終始しようとする警察機構が、公正に犯罪取締にあたっているとは考えられない。現在の厳罰化は、警察による自らの組織的腐敗の隠滅と、何か事故が起こった時に警察を守るために行っているものなのではないだろうか。
高知県で白バイが暴走し、スクールバスに衝突し、白バイ警官がなくなるという事故があった。この事故、客観的には白バイ警官の暴走に起因するものであり、スクールバスの運転手に事故の責任を被せるのはあまりに正義に反するのだが、実際は、スクールバスの運転手に被せてしまった。スクールバスの乗客(つまり中学生)や、第三者の目撃者の証言など、警察の作った筋書きに不利な証言はすべて無視され、身内を守るために「嘘の」証言をした警察官の証言だけを採用した判決が出された。このことからも、警察が国民を守ろうとしていないことがあるということは事実だ。
今の警察組織に、厳罰化の傾向を強めていくことはあまりに危険だと思わざるをえない。戦前の日本軍部を見る思いだ。
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